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  トップページ > 民商・全商連の60年 > 全国商工新聞 第3000号 11月21日付

民商・全商連の60年
 

最終回 被災者救援活動の先頭に

 大きな自然災害を受けた被災地で必ず翻る“旗”があります。支援活動はもとより、業者や地域の要望をまとめ、政府に新しい制度の創設・改善を迫っていく組織-民商・全商連の旗です。全商連60年の歩みは災害で苦境に立たされた業者と地域を支えてきた歴史でもあります。

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伊勢湾台風被害をふり返る位田さん

 「あの時は本当にうれしかったね。全国の仲間が助けてくれた。感激でしたよ」
 三重県四日市市内で会計事務所を開設する税理士の位田幹夫さんは、東海地方に大きな爪あとを残した伊勢湾台風を振り返って言いました。
 伊勢湾台風―。1959年9月26日、紀伊半島から東海地方を中心に全国に甚大な被害を与え、死者・行方不明者は5000人超、全・半壊家屋約15万棟、床上浸水した家屋も15万8000棟に及びました。高潮による浸水の激しかった愛知、三重両県では人口の約2割が被災。阪神・淡路大震災が起きるまで戦後最大の自然災害でした。

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伊勢湾台風支援の大商連のトラック(上)、桑名市におくられた物資(中)、四日市民商の事務所(下)

 「住家は浸水はしなかったけど、隣の建築中の家は全部壊れた」と位田さん。当時33歳。四日市民商の事務局員となって5年目。会員のほとんどが被災し、事務所も浸水被害に遭いました。
 被災者に大きな勇気を与えたのがぬかるみの中、6トンの救援物資を運んだ大阪商工団体連合会(大商連)のトラックでした。
 「軍備費をへらし災害復旧費をたたかいとろう」と書かれた横断幕。戦後14年、物不足にもかかわらず日用品、衣類、コメや食料品がどっさりと積み込まれていました。「予期しないことでした」と振り返る位田さん。当時、自治体の助成もなく、同業組合の支援もほとんどないなかでの民商による救援でした。
 伊勢湾台風後も、水害、地震、台風、噴火…。日本各地を自然災害が襲いました。その度に民商・全商連は支援活動に取り組み、自治体や国と交渉し、業者の要望実現に力を入れてきました。

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「被災者を支えるのが民商の役割」と話す磯谷さん

 国の政策転換を迫る運動も行ってきました。大きな転機が95年1月17日の阪神・淡路大震災。6500人が死亡、25万棟の建物が全・半壊しました。
 全商連副会長で当時灘民商副会長だった磯谷吉夫さんも大きな被害を受けた一人。4軒のトンカツ店のうち2軒が全壊、自宅も半壊し1億円以上の借金を背負いました。しかし震災から3週間後、「地震にカツ」の看板を掲げ店を再開。一人の従業員も解雇せず、半数の従業員は被災者の救援活動に駆け回りました。
 「昨日まで生きていた人たちが一瞬にして命を奪われた。家族に何も言い残せない。これが災害です。でも自分は助かった。だから人のために何かをすることが自分の生き様になった。震災が僕の生き方を変えたんですよ」
 そうした力が一つになって結成されたのが兵庫県連も参加する「阪神・淡路大震災救援・復興兵庫県民会議」でした。中小企業分野での無利子の復旧融資、750万円の無担保無保証人融資を実現。個人補償は実現できなかったものの、00年10月の鳥取県沖地震で、片山善博知事(当時)が住宅への補償を一部導入するなど、現実の政治を動かす大きな力となりました。

戦後の主な災害

 「崖っぷちの被災者が立ち上がる時に一番支えになってくれるところが民商です」と磯谷さんは感慨を込めて強調します。そして、約2万人の死者・行方不明者を出した3・11東日本大震災。震災直後から、全国の民商は支援に駆けつけました。
 人災である福島原発事故の損害賠償請求を求める運動もこれまでの枠を超えて新たな広がりを見せています。
 福島市内で10月30日に開かれた「原発なくせ集会」で太田義郎全商連副会長は「もし一人だったら、東電から賠償をかちとることができただろうか」と問いかけ、こう結びました。「民商という組織があったからこそ、弁護士や税理士さんたちとも一緒になって請求できる。民商会員で本当に良かった。このかけがえのない民商・全商連をどうしても大きくしてほしいのです」と。


歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年

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