第8回 沖縄返還と民商の結成
那覇民商の結成と中小業者の相談が相次いで寄せられていることを伝える商工新聞(1974年4月8日号)
1974年2月18日、沖縄・那覇民主商工会(民商)が結成されました。同県初の民商であると同時に、全都道府県に民商が確立されるという歴史的な日となりました。27年間の長い米軍統治の下で結成は遅れましたが、5年後の78年までには4民商になり、大きな成長を遂げます。その背景には、統治下での全商連と沖縄の中小業者が連携した設立準備、会員・役員の拡大での奮闘、何よりも民商が中小業者に求められていたのです。
「沖縄は敗戦で日本と切り離され、サンフランシスコ講和条約締結後も米軍占領下に置かれ、日本との往来にはビザが必要でした。民商建設はそうした中で始まりました」。那覇民商初代事務局長の中根修さんは琉球政府発行のパスポートを手に語ります。
米軍統治下、沖縄の人々は祖国復帰を願い、本土の民主勢力も「核も基地もない平和で豊かな沖縄を無条件で返せ」と運動を広げていました。
64年8月15日、日本との国境とされていた沖縄本島北端と鹿児島県最南端の与論島の間にある北緯27度線で開かれた沖縄返還要求の「海上大会」で民商・全商連と沖縄県の中小業者が出会います。全商連代表で参加した山崎次敏さん(当時・福岡県連事務局長)が、沖縄の船に商工新聞や資料・パンフ類を投げ込みました。受け取ったのは当時・立法院議員の平田嗣祐さん(故人)で、自身もコザ市で書店を経営する中小業者でした。
平田さんは後に初代沖縄県連会長となる中村嘉三さん(故人)や同副会長の宮城生慎さんなどに声をかけ、資料を使い学習会を開きます。当時の沖縄では、税金は税務署に呼び出されて所得額が決められ、融資も政府系金融機関でさえ財産のある保証人がいないと借りられない状況でした。
商工新聞が伝える税務調査とのたたかいや無担保・無保証人融資などの記事に、業者のための組織が必要だと話が進み、全商連の指導と援助が始まります。71年の全商連第26回定期総会では平田さんが来賓として出席し、民商設立の準備を報告するまでになりました。
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那覇民商準備会から現在まで沖縄の民商運動を見続けている中根さん
72年、沖縄返還が実現したものの米軍基地はそのままで、核持ち込みなどの密約にまみれた不十分なもの。平田さんや中村さんらは基地撤去には、中小業者の民主的戦線を広げる民商が必要だと決意を固めました。
この時、現地の要請を受け、全商連から派遣されたのが京都で民商事務局員をしていた沖縄出身の中根さん。73年9月に結成された那覇民商準備会の事務局として会員・読者拡大に動き出します。中根さんは「中村さんらと業者訪問の日々。なかでも那覇市の牧志第1公設市場では、闇市から商売を始めた鮮魚業者が助け合って生活しており、税金や保育所入所の相談に乗るなかで次々と面白いように仲間が増えた」と言います。74年2月の民商設立総会時には、会員は43人になっていました。
湧川千代さん=鮮魚=は「中小業者の相談に乗るところがなかったので『これはいい』と迷わず入会しました」。城間栄吉さん=鮮魚=も「日銭で暮らす身で復帰前は申告したことがなかった。確定申告を通知されたときは困りました。『税金説明会』と聞いて飛びつきました」と当時を振り返ります。
会員・役員の奮闘で76年のコザ(当時)に続き、78年までに北那覇、名護の各民商を結成。86年には離島の八重山民商を結成させ、中小業者の要求実現と沖縄県民の願いを統一して運動する「中小業者の戦線」を拡大しました。また、毎年の重税反対行動で、税務署主導の申告を自主申告方式に変え、76年には県に無担保・無保証人融資制度を創設させるなど要求を実現してきました。
安保廃棄・米軍撤去要求も変化が生まれています。昨年4月25日の「米軍普天間飛行場の早期閉鎖と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」は9万人が参加し、全41市町村長が賛同。これまで基地撤去に消極的だった米軍関連の仕事をする会員も「子や孫に基地は残せない」と参加するなど運動はますます強まっています。30年間、沖縄県連会長を務めた山川恵吉さんは「基地撤去こそ経済繁栄の道という私たちの訴えと、県民の思いが重なった。必ず実現の日が来る」と確信を深めています。
中根さんは現在、北那覇民商事務局員。県連事務局長も務め、運動を見続けた一人として語ります。「沖縄に戻ったころ、相談に来た会員に市役所や税務署への抗議を提案すると『大丈夫なの』と怖そうに言うので『もう米軍統治下ではなく、憲法が権利を保障する日本です』とよく説得したものです。いまは会員が気軽に相談者を紹介し、抗議行動にも参加します。民商運動は、憲法を沖縄に根付かせる運動でもあったんです」
歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年
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