第1回・閉店ストに立ち上がった業者たち
全国商工団体連合会(全商連)は2011年8月3日、結成(51年8月)から60年を迎えます。その歩みは「幾多の苦難と創造」の歴史であり、豊かな人間性とエピソードに彩られています。歴史から何を学び、未来にどう生かすのか。60年を迎える全商連の歴史をシリーズで紹介します。
「当時店を閉めるのは、大変なことでした」と話す池島さん
「明日店を閉めるぞ」。1960年5月11日夜、池嶋かおるさん(当時31歳)は夫の成男さん(故人)から突然、告げられました。元日を除き年中無休だった酒店を営む池島商店。「何で店を閉めるの」。「安保反対のためだ」。返ってきた夫の答えでした。
成男さんは当時、前橋民商の副会長。「安保、安保と会議ばかり出かけていました」と、かおるさんは当時を振り返ります。
翌12日、店の前には「御得意の皆さんには御迷惑ですが 新安保批准阻止統一行動参加のため休業させていただきます」のポスターが張られました。
業者が店を閉めて安保に抗議した日本で初めての組織的な閉店ストでした。前橋民商だけでも参加した商店は30店。そのニュースは国内だけでなく、フランス、イタリア、ソ連、中国など世界を駆け巡りました。
5月20日には県内で1000軒が参加した一斉ストに発展。「日本の歴史に新しいページを」書き込みました。全商連は5月25日、1週間後に控えた安保阻止第17次統一行動(6月4日)の一環として、閉店ストを含む全国的な一斉抗議行動を提起。これに応えて東京、京都、大阪、熊本はじめ十数都府県で、休業、集会、パレードなどが行われました。
仙台商工業連合会(民商)―全会員の8割、300軒が18台の三輪車、自動車で繁華街を一周。
新潟商工会(民商)―会員600人が閉店ストに参加。
水戸協商会(民商)―午前9時から四十数店が時限スト。
たたかいは日本全国に広がっていったのです。
「安保闘争は日本の歴史に記録される誇るべきたたかい」と話す安藤さん
高崎市内で本屋を営んでいた安藤幸男さん=現・群馬県商工団体連合会顧問=は閉店ストを呼びかけ、仲間と3時間の時限ストを行った一人です。
「店を閉めるのに迷いもあった」という安藤さん。でも新しい時代の「息吹」を感じダンプ運転手、大工、飲み屋のママさんに「一緒にやろうじゃないか」と呼びかけました。「大勢の人が一つになる。これが民商運動なんです」
日本を揺り動かした安保闘争。条約は6月19日、自然承認されます。しかし、批准を強行した岸内閣は退陣に追い込まれ、孤立化した岸内閣を支援しようとしたアイゼンハワー米大統領の来日も阻止されました。
「成立したからといって国民が負けたわけじゃない。国民の団結に一番戦慄を感じたのは支配勢力なんです」と語る安藤さん。そしてこう言います。「零細業者が閉店ストで反対を意思表示した。これは日本の歴史に記録すべきこと。そしてその後大きな民商をつくりあげていった。安保で私たちはたたかう意志と技術を学んだ。それは私自身の質的な前進でもあったんです」
閉店ストのため店の前に張られたポスター(1960年5月26日)
安保闘争から21年後、前述の池嶋成男さんは、心筋こうそくで倒れ、亡くなりました。その間、多くの人の保証人になり、莫大な負債を抱えたこともありました。
「あの時はなんで父ちゃんが店を閉めるのか分からなかった」と言いながら妻のかおるさんは今も仏壇の裏に保管している大事な手紙を見せてくれました。それは、成男さんと一緒に閉店スト成功のため駆け回った嶋田芳郎さん(当時前橋民商事務局長、後に全商連常任理事、故人)が、成男さんの10回忌の法事で読み上げたものでした。
「業者が店を閉めて政治問題に意思表示をすることがどれだけ困難なことだったか。それができたのもあなたが日ごろ、親身になって多くの会員の力になり、信望を一身に集めていたからでした…あなたは…民商の歴史のなかに日本の解放運動史のなかに生き続けていくでしょう。たとえ人は変わり、時代は移っても、事実は永遠の命を持っています」
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