第9回 全商連婦人部協議会の結成
業者婦人の全国組織誕生を喜び合った全婦協結成総会
「平塚らいてうの"原始女性は太陽であった"の励ましを受け継ぎ、歴史的な結成総会を開会します」―。1974年12月2日、全商連婦人部協議会(全婦協)結成総会は渡辺敬子代表委員(故人)の高らかな宣言で始まりました。加盟組織261民商婦人部、部員数2万人余を擁する自主的民主的な業者婦人の組織の誕生です。創立当初から「私の働き分を認めて」と自家労賃要求を掲げて運動。所得税法第56条の廃止を求めるたたかいは自治体を動かし大きく広がっています。
結成総会には600人の代表が参加しました。東京・品川民商婦人部の中川英子さん=板金=もその一人です。「それまでは自分の民商のことしか知らなかったから、大勢の仲間が全国にいることが分かって、涙が出るほど感動した。これで業者婦人の地位向上という私たちの願いをかなえる組織がやっとできたと思うと本当にうれしかった」と当時を振り返ります。
バラバラだった婦人部の運動が、全婦協結成を機に統一して取り組まれるようになりました。その一歩が「自家労賃を認めよ」の運動です。所得税法第56条廃止を求める、今日の運動の土台を築きました。その歴史をさかのぼると、60年代からの京都の婦人部のたたかいがありました。
自家労賃を真っ先に要求する立場に立つ業者婦人たちの組織を作り上げることを満場一致で採択した全商連第16回総会(1961年・箱根)。それを受け、京都では民商婦人部を結成しました。
学習する中で業者婦人の自覚を高めたと話す大島さん
民商の前進を快く思わない勢力は「民商は反税団体、3年以内に民商をつぶす」(63年5月、木村国税庁長官)と不当な弾圧に乗り出し、その嵐が京都にも吹き荒れていました。調査件数は1000件に上り、そのうち700件を超える会員に推計で更正・決定が乱発されました。家族ぐるみで攻撃をはね返そうと婦人部も税務署とたたかいました。
西京民商婦人部の大島小夜さん=ろうけつ染め=も更正を打たれ、夫とともに裁判をたたかいました。「不当調査とどうたたかうかと隣近所に声をかけ、納税者の権利を学んだ。その中から自家労賃の要求も業者婦人の地位を向上させ、権利を守るたたかいなんやと自覚が高まった」と大島さんは強調します。
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自家労賃の要求を自分の問題としてとらえ、運動してきた光山さん
自家労賃の要求は全国に広がりました。全商連第21回総会(1966年・広島)の婦人の分散会では、業者婦人独自の要求をまとめようと話し合い、自家労賃の問題を取り上げました。「お父ちゃんと同じように働いていて、私の給料はなぜ払われへんの」「よそで働ければ給料がもらえるのに、自分の家で働けば、ただ働き? そんなバカなことはない」。業者婦人の思いが噴き出し、京都の代議員は、自家労賃の署名運動を全国の婦人部が取り組むことを提案しました。
「その提案は自分の要求とぴったり一致した」と話すのは、大阪・平野民商婦人部の光山久子さん=板金。当時、機械に左手を挟まれ、仕事ができなくなった夫に代わって経営の一切と従業員の生活、借金の後始末まで何もかもを背負って働いていました。「それでも自分の給料がもらえんかった。おかしいと矛盾を感じていたから、自家労賃の要求は自分の問題として受け止めることができた」と話します。婦人部長だった光山さんは署名の意義を婦人部の仲間に説明しました。ところが「自家労賃? それなに?」と初めて聞く言葉に部員は首をかしげました。
「私たちの働き分を認めよということや」「だれに言うの?」「お父ちゃんや」
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「今だったら大笑いすることでも、そのときはみんな真剣。初めは『従業員に給料を払っても私に給料を払わないお父ちゃんが悪い』と夫が敵になってしまい、婦人部ニュースでも『奥さんに給料を払え』とでかでかと書いて民商の理事会でも訴えていた。『うちのお母ちゃんは電話番だけやから、給料は払えへん』という理事さんに『事務員を雇ったら給料払わなあかんやろ。奥さんの電話番なかったら、どないしますねん』と反論し、家庭内でも夫婦での話し合いが始まった」といいます。
「お父ちゃんが悪いんじゃない。働き分を認めない税制が悪いんや」。学習を深める中で婦人たちはそのことを学びました。
「自家労賃を認めよ」の運動はその後「所得税法第56条廃止」の要求を明確にするとともに、税制問題にとどまらず、業者婦人の人権を認めさせる運動であることを明らかにしてきました。
現在、所得税法第56条廃止を国に求める意見書・決議を採択したのは、320自治体を超えています。半世紀以上にわたる業者婦人の運動によって要求が実現する可能性を大きく切り開いています。
歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年
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