戦後70年未来への伝言
自分史つくり被爆体験語り継ぐ
浅川 晴恵さん=健康食品販売=広島民商婦人部
自分史を手に核兵器廃絶への思いを語る浅川さん
私はずっと「受け身の被爆者」だったんです。40代から子宮がんや胆のうがん、白内障など病気を繰り返し、被爆者手帳も持っていますが、自らを「ヒバクシャ」と言ったのは15年前。体験を語るようになって3年です。
70年前の8月9日、長崎市の爆心地から3・5キロの自宅で遊んでいたとき被爆しました。ミャンマーで戦死した父の骨が帰って来る日でしたが、父を迎えに行くはずだった祖父は市街地へ消火に向かいました。
夕方になると、顔が真っ黒に腫れあがった恐ろしい形相の被爆者たちが夢遊病者のように連なってやってきました。内部被ばくしていることも知らずに、私たち家族は無傷を喜び合い、家を開放して彼らの介護をしました。
私が中学生のころから祖父と祖母は原爆症で入退院を繰り返すようになって、母の形見の着物を質に入れながら、生活費や医療費を賄いました。介護保険も被爆者援護法もなくて、国は何にも助けてくれなかった。長崎では、周りの大人たちが原爆投下について「戦争だもん。仕方ないたい」と言っていました。私もなぜ戦争が起きたのか考えなかったんです。
意識が変わったのは夫の転勤で広島に引っ越して、出会った仲間と原爆のことや政治のことを学ぶようになってから。広島の平和公園の碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」の言葉は、私にとって衝撃でした。原爆が落とされたのは、国の責任だった、間違っていたんだ、と分かったんです。長崎にいるころにもっと勉強していたら、末期の胃がんの祖母が無理に病院を出されたときも「国の戦争のためにこうなってしまったのに、出て行けと言うのか」って権利として医療の請求ができたと思います。
叔母の介護を72歳までして、その後、語り部や被爆者の自分史づくりをサポートする活動を始めました。私も2年前に自分史をまとめ、「ヒバクシャ」としての自分の存在や人に伝えることの大切さをつかみ直しました。
被爆者の平均年齢が80歳を超え、体験者も少なくなるなか、「本当に核兵器をなくす」という強い気持ちと立場に立って体験を伝えていくこと、学んでいくことが重要になっています。そうでないと証言や事実が都合よく切り取られてしまう。「被爆体験」というのは爆弾が落ちたその瞬間の体験ではなくて、「変わってしまった人生そのもの」です。70年間、体にいつ爆発するか分からない爆弾を抱え、苦しみ続けてきた被爆者一人ひとりの声に耳を傾けて、「自分のこと」として捉えて同じ立場に立ってほしいです。
戦争法案が強行採決された今だからこそ、広島・長崎のことをもっと学んで本質をつかみ「核兵器を使ってはだめだ、戦争はだめだ」とさらに大きな声で言いましょう。私も、原爆によって大きく変えられた人生から学んだことを、もっと多くの人に広げていきます。
全国商工新聞(2015年10月19日付) |