二度と戦争しない国へ 中小業者が語り、行動
民主商工会(民商)の会員が「戦争は二度と繰り返さない」「核兵器は廃絶を」の思いを込めて被爆の実相や戦争体験を語り継いでいます。戦後70年の節目の年、違憲立法の戦争法案を許さず、「平和でこそ商売繁盛」の声を上げています。
道端に焼けた人間=広島北民商 斉藤靖江さん
「被爆者は人に言えない悲しみや苦しみを背負って生きてきた。日本を戦争する国にしてはいけない。戦争は絶対に反対」。被爆70年を迎え、広島北民商の斉藤靖江さん=リサイクル店=は平和への思いを強くしています。
4歳の時、爆心地から2・7キロの自宅で被爆しました。その時の恐怖は今も鮮明に覚えています。
「突然、空が真っ黒になって広島駅の方を見ると一面が火の海。それが自分のところに近づいてくるようで本当に怖かった。道端に焼けただれた人間がゴロゴロところがり、バタンコ(三輪車)が何体もの死体を運んできて重油をまいて焼いていた。生臭さと焦げ臭さが入り混じり、その光景と臭いが忘れられない」
食べる物も、着る物もなく、水や焼け跡の草をむしって飢えをしのぐ毎日。継ぎはぎだらけの布を身にまとい、履く物もなく、冬は寒さに震えていました。
小学生になると歯茎や鼻からよく出血するようになり、くしを入れると髪がバッサと抜け落ちるようになりました。「枕に髪の毛が付いてないか、朝起きるのが怖かった。近所の子どもたちも同じように髪の毛が抜け、丸坊主になった女の子もいた」と記憶をたどる斉藤さん。「でも、その時はそれが原爆の影響であることが分からず、治療を受けることなんて考えられなかった」と言います。
次第に原爆の被害が明らかになる中で被爆者は差別を恐れ、被爆したことを隠すようになりました。特に、結婚前の若い女性は口を固く閉ざしました。
20歳の時、斉藤さんが恐れていたことが現実になりました。初恋だった富山の男性と結婚を約束したものの、男性の両親は「広島の女の人と結婚するとケロイドの子どもが生まれる」と猛反対。結婚は破談になりました。
「私が何か悪いことをしたのか。なぜ、こんな思いをしなければならないのか。死にたい」。失意のどん底に突き落とされ、原爆と戦争を恨みました。
その後、結婚。幸いにも子どもに恵まれ、6人の孫と5人のひ孫がいます。「本当は思い出したくもないし、知られたくもない。でも、私らが語り継がなければ原爆の記憶が風化する」と、斉藤さんは声を上げます。
「二度と戦争を繰り返してはいけない。孫やひ孫のためにも憲法違反の戦争法は廃案に」
地獄のような光景=大阪・天王寺民商 末広千鶴子さん
大阪・天王寺民商の末広千鶴子さん=クリーニング=は1945年2月、18歳で女子挺身隊に志願して故郷の福岡県大牟田市から広島市に赴任。8月6日午前8時15分、爆心地から半径2キロ以内の千田町で被爆しました。
臨時作業で材木を同僚と2人で持ち上げようとした瞬間でした。
「突然、カメラのフラッシュのように八方に差す閃光だった」と千鶴子さん。とっさに伏せた後、しばらくして気づいた時、辺りは闇だったといいます。一緒にいた同僚は倒れていて、もう動くことはなかったと目を伏せます。ぞろぞろと人が動き出したのでついていこうとしたその時でした。
「私、裸だ」―。衣服は燃え吹き飛ばされ、顔の左半分ははれて水膨れになり、右半分は頭頂からの流血で引きつったまま。いくつものガラス片が突き刺さっていたのでした。
周りには、皮膚が爪から先に垂れ下がり、引きずりながら「痛いようー」「熱いよー」とうめきながらさまよう人、乳房がざっくり割れた女性などが…。両手で体を覆いながら列に加わったとき、「看護師か、薬剤師か、白衣を私に渡してくれた。地獄に仏だった」と当時の心境を語りました。
敗戦後、各地を転々とした千鶴子さん。「差別と体の不調から逃れられなかった」と話します。特にすさんだ元日本軍兵士らに心ない言葉を浴びせられました。それでも多くの人に助けられ、24歳の時に結婚。31歳の時まで被爆を隠していましたが、初期白血病で入院した時、離婚も覚悟して夫に打ち明けました。「長いこと、言えなくて辛かったろう。心配せんでもええよ」と言ってくれた夫。
1983年から始めた語り部にも「行って来い」と背中を後押してくれました。
以降、仕事の合間を縫って中高生を対象に教壇の端から端まで駆け回り、実相を伝え続けてきました。「手に取るように分かってほしかった。二度と体験させたくない」との一念でした。
3人の子どもと8人の孫、4人のひ孫に恵まれた千鶴子さん。「戦争も原爆も、もういやだ。若い人たちにお願いしたい。もう被爆者をつくってはならない」。平和への思いを新たにしています。
商売する自由も奪われ 身に染みた「平和でこそ」=北海道・北見民商 菅野智さん
私は樺太で生まれて、5歳の時に満州に行きました。製紙会社の技術者をしていた父が「子どもたちの学費を稼ぐために」というのが理由だったそうです。
当時は植民地手当がついて、樺太での給料は日本本土の10割増、満州は20割増でした。その時に貯蓄したお金は、戦時国債という戦費調達のための国の借金に回され、敗戦と同時に紙切れになりました。
そして軍隊は国民を守らないことも思い知らされました。終戦の3日前、関東軍は「ソ連が攻めてくる」といって、逃げていなくなりました。そこにいた住民は何も知らされず、知ったのはその後でした。結局、軍隊はその国の権力者のために動くものだったということです。
だから私は自衛隊が海外へ行って何を守るのか疑問でしょうがないのです。
何より、戦争で一番犠牲になるのは幼い子どもと女性です。終戦後、夫や父親が戦死した家庭はいっぱいあった。終戦になって食糧難で多くの子どもが栄養失調で死んでいきました。
私も弟を2歳で亡くしています。母親が死ぬ時に「一度でいいから医者に脈をとってもらってから(弟を)死なせたかった。それが一番悔いが残る」と話していたのは忘れられません。
また、私は戦争で教育を受ける権利も奪われました。中学校は1学期しか行けず、生活のために12歳から働かざるを得ませんでした。父親を恨んだ時もあります。しかし戦争を起こした国が一番悪いと思うのです。
戦時中、日本人は中国人を安くこき使ったり、惨殺したり、ひどいこともやってきた。
満州に行った大人たちは被害者でもあり、加害者でもあった。だから語れないこともあると思う。被害者の歴史は伝わっているが、加害者の歴史は伝わらない。このことにきちんと目を向けなくてはいけません。
今の戦争立法は3・11の原発事故直後の報道と同じように見える。事故直後、諸外国は自国民を日本から逃がして、原発の状況を知らせてきたのに対し、日本政府は違いました。今回も政府は大切なことを知らせません。
太平洋戦争で商売人はつぶされ、統制されて配給所でものを配るようになりました。戦争を体験してきた自分は「平和でこそ商売繁盛」というのが身に染みています。だから民商活動を頑張ってきました。戦争をする。それは国家が最優先になり、商売が自由にできなくなることです。一番伝えたいことです。
また声を上げたくても上げられない人も多いと思います。その人たちを勇気づけるためにも民商が頑張らないといけない。私もできる限り頑張っていきたいです。
「平和守る」誓い合い 集いで思い交流=長崎県婦協
「平和への思いを引き継ごう」と開かれた長崎県婦協の平和のつどい
原爆の悲惨さを語り継ぐ運動を進める長崎県婦協は7月26日、長崎市内で「平和のつどい」を開催。県内民商婦人部員や民商会員など100人が参加し、被爆体験を聞き、証言の朗読や歌など平和への思いを交流しました。「被爆県の業者婦人として実態と思いを伝え、平和を守っていこう」と誓い合いました。
つどいでは、長崎県婦協元会長の橋口亮子さん、長崎民商婦人部のKさん=居酒屋=らが被爆体験や業者婦人としての人生、民商運動への思いを語りました。
橋口さんは、爆心地から3キロ地点で被爆。30年以上被爆者であることを話せずにきました。被爆体験を語るようになったきっかけは、沖縄で開かれた全国商工団体連合会(全商連)の全国活動者会議で、沖縄戦の悲惨さにふれ、戦争を知らない若者に出会ったこと。「風化させてはいけない」との思いで語り始めたことを紹介し、「子どもを失ったり、差別を受けて『原爆のことはもう聞きとうなか』という被爆者も多くいる。戦争法案が強行採決されるなか、『平和でなからんば、何もできない』とあらためて伝えていかなくては」と語りました。
3歳のときに被爆したKさんは、11人きょうだいの末っ子。「原爆のことを話すと、苦労して子どもたちを育てた母の顔が頭をよぎるから悲しくて。言いたくなかった」と言葉を詰まらせました。
原爆資料館を見学する長崎県婦協の業者婦人たち
「小さいころは、洋服も買ってもらえなくてね。一枚のブラウスを毎日洗濯して着てたから、絶対に貧乏はせんと頑張ってきた」「夫と死に別れて2人の子を育てるために店を持った。商売する中で保証かぶりも経験したけど、民商の力を借りて乗り切れた」と人生を語り、「日本は70年戦争してこなかった。9条に守られているんだから。戦争法案を止めたいから署名頑張ってるんです」と力を込めて呼び掛け、参加者を勇気づけました。
県婦協が作製した証言集『あじさいの街から』の一部を諫早民商婦人部のTさん=土木=が朗読。「7歳の娘は8月9日生まれ。娘を持ってあらためて戦争を生きた人たちのことを考えるようになった。このままずっと平和が続くように自分も発信していきたい」と話しました。
集会に先立って、みんなで原爆資料館も見学。初めて館内に入ったという諫早民商婦人部のHさん=生花店=は、「当時の写真を見たり原爆の話を聞いて胸が打たれた。家族が一瞬で黒焦げになってしまうなんてどんな気持ちなのか、考えたくもない。若い人たちにもっと原爆を身近に感じてもらいたい」と、平和を守り抜く気持ちを新たにしていました。
被爆証言集『あじさいの街から』
核兵器なくなるまで
長崎県婦協は7月25日、『語り継ぐ!被爆70年の平和への思い あじさいの街から2015』を発刊しました。『業者婦人がつづる被爆証言集 あじさいの街から』をまとめたもの。「戦争する国づくりが強行される今こそ、平和を守る核兵器廃絶の運動へ、業者婦人の力を結集させよう」と取り組みました。
第1集が発刊されたのは20年前。被爆者の「心の叫び」「被爆の実相」を風化させてはならないという思いから、婦人部員たちが業者や業者婦人を中心に被爆者延べ91人から体験を聞き取り、第7集まで発刊しました。第1〜5集は核廃絶を願う市民運動「100年後の人々への手紙」を残す運動にも選ばれ、東京・上野東照宮境内の「広島・長崎の火」モニュメントの下に埋設されています。
『あじさいの街から 2015』には、婦人部員と被爆者との対談や各証言集に収録された証言者の性別、年齢、編集に関わった人たちの思いなどを掲載。タイトルの「語り継ぐ」は被爆者の心の声を聞き、それを伝え、地球上から核兵器がなくなるまで運動し続けること。平和の実現に向けて行動する決意が込められています。
全国商工新聞(2015年8月10日付) |