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  トップページ > 平和・民主主義のページ > 平和・憲法 > 全国商工新聞 第3174号6月29日付
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平和・憲法
 

戦後70年未来への伝言

父の書店は国に壊されて

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戦争は人間を変える/横浜市・萬納昭一郎さん
 政府は「国民を守るために戦争する」というが、全くの詭弁です。第2次世界大戦の時もそう言って戦争を始めましたが、大企業、財閥の利益を増やすために戦争をするのが本音で、そのために国民が犠牲になるのが戦争の本質。戦争が終わって70年になるが、戦争がないことがどれくらい良いことか。二度と戦争はしたくない。
 武器が発達している今、戦争になれば計り知れない悲惨な状況になります。絶対戦争をしてはなりません。
 盧溝橋事件をきっかけに1937年から始まった日中戦争の当時、東京・青山に住んでいました。明治神宮のすぐ近くで祖父が山陽堂書店を開業したのが1891(明治24)年でした。
 戦争で何より物がなくなり、食料もわずかな配給制になって食べるものはありません。日中戦争が全面化すると、1938年の国家総動員法に基づく「国民徴用令」が翌39年に制定され、国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用可能な体制がつくられていきました。
 生活物資の配給制も敷かれて、資材は軍需用に回され、商品そのものがなくなり、売るものがなくなりました。
 太平洋戦争に突入する前、13歳の時に横浜市鶴見区生麦の現在の場所に父親が山陽堂書店を開業。書籍と文具販売を始めました。
 太平洋戦争が開始されると統制が強化され、1942年の企業整備令によって中小企業・商工業者の整理・解体が進められました。
 わずかなお金をもらい、多くの業者がやむなく商売をたたむ中、「商人は商売で頑張れ」という叔父の言葉に励まされ、踏ん張りました。
 家族で支え合い、商売を続けましたが、大黒柱だった父親が徴用訓練に取られました。訓練から帰ってきた父親はまるで人が変わってしまいました。子どもに食事をあげるような優しい人が、子どもに目もくれずガツガツ食べる姿を目の当たりにしました。訓練でどんなにつらい思いをしたのか。訓練先では、昼夜を問わない厳しい訓練が行われました。普通の商売人を戦争に役立つ人間に変えることが目的だから訓練は過酷だったのでしょう。人間を変えてしまうのが戦争です。
 父は訓練に駆り出され、私は学徒動員で羽田の荏原製作所で送風機の羽を削る肉体労働に従事。太平洋戦争末期になると、空襲の延焼を防ぐための強制疎開(建物疎開)が行われるようになりました。その中で山陽堂書店も有無を言わさず取り壊され、一家は住む場所を失くしました。
 戦後は、土地を取り戻し、経営を守るたたかいの連続でした。1年で物価が10倍にも跳ね上がる急激な戦後のインフレで生活は追い込まれていきました。1946年の「増加所得税法」で苦しむ多くの中小業者とともに、割当課税反対の運動に立ち上がりました。

焼夷弾の雨で地獄を見た

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命ある限り反戦訴え/神戸市・進藤正男さん
 わが国は戦後70年間、平和憲法の下、戦争で殺し合いもなく、経過してきました。世界に不戦を誓い、信頼されてきました。
 しかし今、「平和」か「戦争する国」か、大きな岐路にあります。平和憲法が最大の危機に直面しているのです。
 私は神戸大空襲を体験した一人です。その経験から、戦争とは殺し合い、焼き尽くし、破壊するものだと実感しています。人類を不幸のどん底にたたき込むものでした。
 10歳の時でした。米軍機B29から、焼夷弾が雨あられのように降り注ぐのです。逃れるすべはなく、私の前を逃げる市民に次々と爆弾が直撃。首は吹っ飛び手足がもがれ、「この世の終末か」と思う情景でした。
 地獄絵そのもので、終生、忘れることはありません。
 8月15日の敗戦後、灯火管制がなくなりました。電球の明かりを覆うこともなく、そのままの光を目の当たりにした明るさ。もう空襲におびえず、ゆっくりと眠れる。平和の尊さをかみしめた時でした。本当に天国と地獄の差なのです。
 二度と戦争はしてはならない。戦争を知らない安倍政権は、憲法を無視して国の形を変える重大事案を、一内閣の閣議決定で都合のいい解釈をして戦争する国づくりを進めようとしています。政治の暴走で大きな怒りと恐怖を覚えます。
 人類の幸せの原点は平和であることが不可欠です。平和憲法の尊さと戦争の実態を一人でも多くの人に訴える。これが体験者として大きな責任だと確信しています。
 命ある限り、反戦を訴え続けていく決意です。

満州から奇跡的に引き上げ

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加害の事実を消すな/東京都・上原譲さん
 私たち家族6人は旧満州(中国東北部)から、全員生きて帰ってきました。今まで引き揚げ者であることを語らなかったのは、家族を失い、残留孤児になった人がいる中で、後ろめたい気持ちがあったからです。
 当時、新京(今の長春)に20万人とも30万人ともいわれる日本人がいました。生き残って帰れたのは、ただの偶然が重なっただけなのです。
 父が満州に単身で渡ったのが1930年ごろ。日本では祖父の代から始めた印刷業を手伝っていましたが、次男だったので、新天地に希望を求めたのです。現地の日系の印刷会社に勤め、1940年代の最初には独立し、実兄の家族も呼び寄せていました。私たちが住んでいた新京は、関東軍や南満州鉄道の特権階級が多く住み、レンガ造りの共同住宅には電気やガス、水道なども通っていました。
 1945年8月の敗戦直前に、父もその兄も現地で召集されました。終戦時には家の前にあった憲兵隊司令部がもぬけの殻になっていました。6、7月ごろには関東軍の戦車部隊が大量に隊列を組んで移動していったのを覚えています。今考えれば、あれは敗戦を察知して早めに引き上げていったのだと思います。母子家庭同士で話し合い、朝鮮経由で帰ろうという話もありましたが、母は「私は動かない。お父さんが帰ってくるまで待つ」と頑張りました。
 これが幸運の一つでした。後に朝鮮に向かった人の中には途中で行き倒れ、日本に戻れなかった人も多かったのです。
 父は敗戦後、ソ連兵に捕まりましたが運良く、シベリア行きを免れました。父が新京に帰ってからの1年間は、豆腐を仕入れて街に売りに行ったり、内戦を再開した八路軍(中国共産党軍)と国民党軍の使役(肉体労働)をしたりして、どうにかお金を得ていたそうです。
 これまでと立場が逆転したのです。最後は家にあるものを全て売ってお金を稼いでいました。
 ソ連兵が家にも2回、入ってきましたが、幸い乱暴されることはありませんでした。今思えば、ソ連兵から暴力を受けず、現地人からの略奪にも合わなかったことは単なる偶然にすぎません。
 1946年7月、とうとう日本に戻る時が来ました。石炭などをバラ積みする列車に乗り3、4日で胡蘆島にたどり着き、貨物船で博多まで戻ってきました。とにかく全員で日本に戻ることができたのです。
 戦争中、生きるか死ぬかは、紙一重です。1970年代、80年代に(中国)残留孤児が肉親探しに来日するたびに、私はテレビに映る彼らをまともに見ることができなかった。同じ場所にいて、私はこうして日本に戻ることができた。私よりもっと小さい子たちが、足手まといになるからと、中国人に預けられたケースが多かったのです。
 60年代の安保反対の運動の中で私はさまざまなことを学び、日本が加害者だったと認識しました。戦後平和教育は、東京大空襲や広島・長崎の原爆など被害者の立場を教えてきました。しかし戦後70年の首相談話から侵略の文字が消されるかもしれない今こそ、加害者であった事実を伝えなければと思っています。

全国商工新聞(2015年6月29日付)
 
   

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