基地返還 跡地利用 経済効果2000億円=沖縄・北谷
米軍基地が返還され跡地利用でにぎわいを生んでいる「ハンビータウン」。住民本位のまちづくりが進み、経済発展も遂げています。沖縄本島中部に位置する北谷町を訪ねました。
北谷町でひときわ目立つ美浜地区の観覧車
飛行場から商業施設に
巨大な観覧車が目立つ北谷町美浜地区。「ハンビータウン」には、にぎやかな商業施設が並んでいます。以前、米軍の飛行場があったことは想像できません。
北谷町は人口2万8000人。商業中心で西海岸一帯は観光スポットとなり、都市型リゾートとして人気がありますが、いまだに米軍基地の面積は53%を占めています。
かつて田園地帯だった北谷町は沖縄戦の米軍上陸地点となり、2300人の住民が命を失い、土地・家屋は破壊しつくされました。戦後は、米軍基地内にしか仕事がなく、1955年当時は1000人を超える住民が基地内作業に従事していました。
98年に基地内建設された町役場庁舎の屋上で全商連視察団を案内する中村町議(左から2人目)
基地跡地活用で税収・雇用急増
72年の本土復帰前後から米軍基地返還について協議され、81年にハンビー飛行場(42.5ヘクタール)、メイモスカラー射撃場(22.9ヘクタール)が返還されました。
ハンビー飛行場跡地では、町が「北前土地区画整理事業総事業」として約21億円かけて跡地利用事業を進め、商業地域として発展。町の商工会では異論はありましたが、県内企業の大型商業施設を設置することで、地域活性化が図られてきました。
北谷町の試算では、91年から02年までの12年間で、経済波及効果は1726億円。基地だったころの固定資産税357万円は2億8600万円と81倍になりました。雇用創出は100人足らずが、2000人を超えるに至っています。
メイモスカラー射撃場では、23億円かけて土地区画整理事業を進め、商業業務施設を中心とした都市環境が整備されました。
96年から02年の7年間で、経済波及効果は402億円。192万円だった固定資産税も1億8500万円と56倍になりました。
基地の真ん中に町役場を建設し
98年には、「キャンプ桑江」基地内の真ん中に町役場庁舎を建設。45・8ヘクタールの土地が実際に返還されたのは03年であったため、共同使用というかたちでした。
現在は、情報通信、環境産業などの進出を視野に、町が66億の区画整理事業として開発しています。
「04年に7000年前の貴重な土器などが発見され、国指定の遺跡としても整備されています。歴史博物館も建設予定です」。重機で土地を整備する景色が一望できる町役場の屋上で、町議の中村重一さん(日本共産党)が説明してくれました。基地返還後の跡地利用事業は、まちづくりに劇的な変化をもたらしたと説明します。
しかし、「土地を掘り起こせば、砲弾やキャタピラなど汚染物質が出土し、事業が思うように進みません」という厳しい現実も。国の施策により、基地外に住む米兵は現在約3500人に上り、米兵犯罪が多発するなど、住民の不安も解消されていません。
中村さんは、「基地をなくし、環境豊かな北谷町を守り、地域経済を発展させるためにも、県知事選挙でイハ候補を当選せたい」と力を込めました。
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