事業継承ホントのトコロ=建築会社員から保険代理店へ
建築分野から保険代理店営業へ‐。秋田民主商工会(民商)のDさんが事業継承で選んだ道です。不安や葛藤の中で、「家業を継ごう」という決意をさせたのは、家業や両親、郷土への思いでした。
「制度も保険会社の商品も毎年変わるから、覚えるだけでも大変なんです。会社に入るまで、損保について全然知らなかったから」と話すDさんは、父・Kさんが始めた会社を2年前から手伝っています。個人・法人との契約提携・管理、事故時の対応などが主な仕事です。
家業を手伝うまでの仕事はまったく畑違いの建築分野。Kさんは代理店業を始める前は内装業をしており、幼いころからそれを見て育ったDさんは、自然に建築物に興味を持ちました。
早く社会に出たいという気持ちもあり、工業高校を卒業すると同時に測量の会社へ就職。Kさんから「外の世界を見て来い」と言われ、東京、愛知などで働き、10年がたつころには現場を任されるまでに成長しました。
そんな折、Kさんから家業を継がないかと相談が。独立した代理店としてKさんの経営する(有)AM総合保険が存続していくには、「後継者」が必要になっていたのです。
1年間悩んで
当時のDさんは29歳。職人として一人前になったばかりで、秋田に戻る気はありませんでした。帰省のたびにKさんと話をするものの、約1年は結論を先延ばしにしていました。
「悩みました。でもズルズル考えても仕方がないし、動けなくなるだけ。それなら行動するのみだと思ったんです」
最終的に気持ちを後押ししたのは、家業や育ててくれた両親への思い。「生まれ育って、両親がいるここが自分の居場所。先は決して楽じゃないけれど、一人っ子で、家を継げるのは自分だけですから」
腹をくくって
こう話すDさんが決断したのは30歳の時。「アルバイト以外のサービス業経験はなかったので、不安でした。でも30歳ならギリギリいける。やってみるしかないと腹をくくりました」
また郷土への思いも。「秋田は米はうまいし、良い所なんです。みんなが秋田を離れてしまえば、人口が減って地域が活性化しないという悪循環に陥るだけだ」「大都市が秋田を支えてくれるわけではないし、ここにいる自分たちが頑張らないと」と力を込めます。
会社では研修生からのスタート。仕事は大変ですが、楽しさもあると言います。「一番良かったのは、いろんな人と知り合ってつながれること。代理店の仕事は、お客さまとのつながりを大切に、人脈を作っていくことでもある。お客さまから教わることも多いんです」
Dさんは今、Kさんがつながりを作ってきた顧客を引き継ぎながら、新しい人脈を広げています。「最初は単純に『父の人脈・築いたものをそのまま受け継ぐ』ことが後を継ぐことだと思ってました」と笑いますが、仕事をする中で、次第に「父と100%同じことをしても、お客さまは納得しない」という点に気がついたと言います。
まねではなく
「まねじゃなく、父が築いたものを継承しながら、例えば自分のスタイルや対応を付け加えて新たなモノを構築することが、『後を継ぐ』という意味だと思うんです。お客さまとの取っ掛かりは『社長の息子』でも、最後には脱皮して『D』という一個人になりたいです」
99年から02年にかけての業界再編、その後も合理化・効率化の名のもとに代理店が縮小し続けている保険業界。その中でも、今の時代に合わせた商品を提供し、変化に機敏に対応していきたいと意気込むDさん。生き残りをかけて、お客さまとの付き合い方など、物事を間違えないように選択していきたいと話しています。
若い感性を生かして
父 Kさん
家業を継いでほしいと思っていたので、本当にうれしいですね。なるべく若いうちに、私が築いたものを受け取ってほしいと思っていましたので。
代理店を継ぐということは、契約を結んでいるお客様との接点・人脈を継承することでもあります。私のお客さまを受け継ぎつつ、自分なりのやり方でお客さまとの関係性をつくっていってほしい。60代と30代では考え方も生き方も違います。私が若い人と関係を作るのはなかなか大変です。だからこそ、若い人なりの感性で仕事をしてほしい。
息子は職人の経験があり、職人の精神を持っていると思います。それはお客さまと接するのに必要です。この仕事はお客さまに素直に、実直に接することが大切。格好よく見せたりする必要はありません。
私は家業を継ぐことを決意してくれた時点で、一人前だと思います。自分はこうしていくんだという決意を持って、仕事をしていってほしいですね。
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