八ッ場ダム問題の経緯と課題・地元からのリポート
群馬県で計画されている八ッ場ダムの中止をめぐって、大きな議論が起きています。問題の経緯について、地元で活動する吾妻民主商工会会長の金澤敏さん=木工=にリポートしてもらいました。
水没地帯移転用の川原畑代替地。移転する人はごく少数だといいます
昨年、前原国交相が八ッ場ダムの本体工事中止を宣言してから、水没予定地がある長野原町とダム直下に当たる東吾妻町は困惑に包まれました。
役場職員やダム推進の有力者が自分の立場を隠し、ダム建設中止の不当性についてマスコミに攻勢をかけた結果、連日、地元住民の声はダム建設推進一色であるかのような報道になってしまいました。
12月19日に行った水没地域のアンケート調査は、住民の生の声を聞くよい機会となり、私が会ったほとんどの人たちは冷静に事態の推移を見守る雰囲気で「最初は自分も、そしてみんなもダムには反対だったんだよ」と語り出しました。しかし58年間、徐々に真綿で首を絞められるように反対できなくなった歴史に少し触れるだけで、これまでの苦しみ悲しみは言葉に言い表せないことがひしひしと感じられました。
そもそも八ッ場ダムの構想はカスリーン台風により利根川下流域(首都圏)が災害にみまわれたことから1952年、突如治水ダムとして提示されました。水没予定地域は旅館や民家340戸、人口1170人ほどが住む吾妻川中流域です。多数の移転住民が出ることから当然、反対運動が起こりました。
吾妻川の水質は上流の草津や万座の影響で酸性が強いため、計画はいったん立ち消えになったかに見えましたが、建設省は64年に草津酸性中和工場を完成させ、再度計画を利水も含めて再浮上させたのです。
水没地帯移転用の川原畑代替地。移転する人はごく 少数だといいます
翌年には水没予定地に反対同盟が発足し、長く苦しい反対闘争が始まりました。ダム推進勢力はアメ(補償金)とムチ(社会資本整備の停止)で住民同士を切り崩し破壊しました。計画の長期化により地域も疲弊し、ダム問題に翻弄され続けた地元は85年、苦渋の選択として不本意ながらダム建設を受け入れたのです。
ここ数年は「下流域のため」と自分を納得させダム建設を受け入れたのに、また中止では心の安定が崩れ気持ちの整理が付かないというのが今の普通の地元の人たちの心境なのです。
一刻も早くダムのない生活再建や地域振興のための特例法等制定し、併せて精神的苦痛に対しても補償をしっかりしていく必要があります。
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