特集・東日本大震災から2年
東日本大震災から2年。福島第1原発事故が起きた福島県では、いまなお放射能汚染の恐怖にさらされています。安心して暮らす権利を奪われた住民たちが国と東京電力(東電)を相手どり「生業を返せ、地域を返せ」福島原発訴訟(別項)に立ち上がりました。原告団長を務めるのは相馬市で中島ストアを経営する中島孝さん。相双民主商工会(民商)の会員です。従業員と力を合わせて営業を続け、住民の命をつないできました。
被災者の命つなぐ食料品店=福島・相双
集団訴訟の原告団長に
地域の人たちが笑顔になれるようにと仕事に励む中島さん
「あの事故をきっかけに原発はなくなると思っていた。しかし再稼働の動きが強まり、被害者の賠償請求を打ち切ろうとしている。福島県民が声を上げなければ原発はなくならないし、事故前のふるさとは取り戻せない」。中島さんが原告団長に就いたのは国と東電の責任を法廷で明らかにするため。強い決意で裁判に挑みます。
この2年間、中島さんは相双民商の仲間と一緒に東電への損害賠償を求めてきました。民商が実現した損害賠償は実に50億円に上ります。とりわけ中島さんは、相馬双葉漁協小買受人組合(別項)の組合長として組合員の損害賠償の相談に力を入れてきました。売り上げ減少など被害の実態を東電に突き付け、一歩も引かない態度で交渉。損害として認めようとしなかった経費を認めさせるなど実態に即した損害賠償をかちとりました。中島さんと民商には地域から絶大な信頼が寄せられ、入会者が相次ぎました。
その一人は沿岸部にあった水産物を販売する店も自宅も津波で流され、何も考えられずにいたとき中島さんから声をかけられ、「仕事や暮らしのことを考えられるようになった」と振り返ります。民商に入会し、損害賠償を実現させた。「民商は親身になって話を聞いてくれるところ。福島を離れず、この地で頑張りたい」と生きる希望を見出しています。
困った人に手差し伸べ
中島さんと妻・和美さん(前列左から4人目)と従業員。力を合わせて店をもり立てています
困っている人がいたら手を差し伸べる―。民商の仲間や同業者、友人たちの相談を受ける中で中島さんはそのことを当然のこととして受け止めてきました。「仕事を放り投げて駆けずり回っているから家族はあきれ返っているけどね」と苦笑いしますが、震災が起きたときもその姿勢を貫きました。
中島さんの目にはいまも震災当日の光景が焼き付いています。震災の現実を受け入れられず、駐車場には放心状態の人たちが車の中で頭を垂れて動けずにいました。
「店も家族も無事だったおれたちが困っている人たちを助けないでどうすんだ。食料を供給し、被災した人たちの命をつなごう」。
そう考えた中島さんは断水を予想してバケツやポリタンクに水をためることを従業員に指示。幸いにも電気やガスが止まることなく、コメを炊いておにぎりを握って販売。翌日からは従業員とともに簡易水道が無事だった地域から水をポリタンクに入れてトラックで何度も運び、地域の人に無料で配布しました。店の棚の食料は3日でなくなり、その後も農家から野菜を集めて公設市場の冷凍庫にあった魚や食料品を運んで販売。従業員と一丸となって休む間もなく営業を続けました。
住民の笑顔のためにも
「相馬新地・原発事故の全面賠償をさせる会」のメンバーとして毎週金曜日に原発ゼロを訴える中島さん
地域の人たちはそのことをいまも忘れずにいます。「あのときは本当に助かった。水を無料で提供してくれて、みんなが喜んでいたよ。中島ストアは温かい。地域になくてはならない存在だよ」。近くに住む女性は感謝の言葉を口にします。
震災から2年。中島ストアは落ち着きを取り戻し、新鮮な魚や手作りの温かい弁当、豊富な総菜などを買い求める人たちで連日にぎわっています。「一生懸命働いたお母さんたちが疲れて家に帰ってきたときに中島ストアの総菜が夕食の食卓に一品、二品並ぶ。そして地域の人たちが笑顔で生活できる、そのよりどころになる店づくり」。中島さんは父・宏さんや母・カネさん、妻・和美さんと一緒にそのことを思い描きながら28年間、中島ストアを守ってきました。
それだけに安心して暮らす権利を打ち砕こうとする国と東電を許すことができません。「原発事故で苦しんでいる被害者の損害賠償を打ち切るな。集団訴訟はそうした声を公に表明する場。国と東電が犯した罪を裁判で必ず明らかにする」。中島さんはその思いを胸に刻んでいます。
* * *
▽「生業を返せ、地域を返せ」福島原発訴訟…国と東電に原状回復と慰謝料を求める訴訟。中小業者や農業者、会社員など原告の人数は現在750人で、さらに増える見通し。
▽相馬双葉漁協小買受人組合…民宿や魚屋、スーパーなど40業者でつくる任意の組合。相馬双葉漁協から直接魚を仕入れている。セリや入札方法の改善を漁協に申し入れるなど35年の歴史をもつ。
岩手・上閉伊民商が地域に事務所を再建
すべての被災地で業者の拠点築く
新しい事務所の前で気持ちを引き締める及川会長(中央)と副会長の斎藤夫婦
岩手・上閉伊民主商工会(民商)は2月10日、震災後初めて臨時総会を開き、新役員の選出を行うとともに仮事務所をオープン、再建に向け大きな一歩を踏み出しました。
これで被災したすべての民商事務所の再建ができました。
「やっぱり事務所があるといいね」。事務所オープンと同時に、4人の会員が訪問し、相談活動が始まって新しい仲間も迎えました。会外業者への訪問活動も始まり、申告相談も開始。2月15日には記念すべき「あったか民商」ニュース1号を発行し、「相談会」にも足を踏み出しています。
わが地域に民商が必要 役員体制確立し再出発
2年ぶりに本格的な活動を再開した上閉伊民商。しかしそれまでには大きな困難とのたたかいがありました。
3・11大震災で、川沿いにあった上閉伊民商事務所(釜石市)は、基礎部分だけを残し書類を含めすべて流出。ただ一人の事務局員、菊池禮子さんは、体が不自由な叔母を助けに行く途中、津波にのまれ、帰らぬ人となりました。会員・家族の死亡は菊池さんを含め8人にのぼっています。
一人ひとりの会員を訪ねて
上閉伊民商の担当行政区(2市1町)で大きな被害を受けたのは事務所のある釜石市と大槌町。臨時総会で再任された及川一男会長は、震災から2カ月間仕事を休み、事務所から1時間余り離れた自宅のある遠野市から毎日、被災地に通いました。
「やらねばという思いで必死だった」と振り返る及川会長。安否確認のため避難所、遺体安置所にも足を運びました。一人ひとりの会員を訪ね、大船渡民商や全国から届いた支援物資の配布、そして不安や悩みを聞き回る毎日。訪問を通じ、家族の安否、自宅や工場の被災状況、共済加入の有無、家族の連絡先などをノートに書き込み、会員全員の名簿も作成しました。
集まる事務所もなく散り散りになった会員の心を一つにしようと取り組んだのが「復興の集い」。震災1カ月後の4月には、会長の自宅で開き、釜石市、大槌町でもそれぞれ6月、9月に開催しました。「店を開きたいが資金はどうすればいい」「仕事がない。途方に暮れている」「魚を捕りたくても船がない」…。切実な要求とともに、民商の事務所を早く再建してほしい、との要望が相次ぎました。
相談会を開き要望に応えて
12年3月の申告前には、釜石の地元紙に広告を出して「なんでも相談会」を2回開催、会員の要望に応えた活動は続きました。
しかし―。
「事務所もないし、だんだん展望が見えなくなってきたんです」。12年の集団申告後、被災地に通う回数も減りました。新しい事務局員、事務所探しにも走り回ったものの、話はまとまりませんでした。
「こうなったら、民商を他の民商と統合するか、事務所を遠野市に移すしかない」。及川会長の頭によぎった考えでした。10月に入り、役員らに手書きの文章を郵送しました。「私もいろいろ考えてまいりましたが、皆さま方の御意見等聞きたくてお集まりいただきたく存じます」
最初の役員会は流れ、11月12日の役員会には5人が参加。「どうすっぺ」。民商統合の会長提案に沈黙が続きました。震災前70余人だった会員は60数人。このままでは事務所費用も事務局員の活動費もままなりません。最初に口を開いたのはタイル店の佐々木末広さん。言葉少なに言いました。
「とにかく釜石に民商がほしい。統合には反対だ」。それは参加者だれもが胸に抱いていた願いでもありました。
毎週のように役員会を開き
この意見をきっかけに、議論の流れが変わりました。以降、12月末まで毎週のように開かれた役員会。「事務局を確立するには会員150人が必要だ」「やれるのか」「やるしかねえか」。上閉伊民商が大きく動き始めました。
13年の年が明け、2月10日に開かれた臨時総会。それまでに待望の仮事務所(賃貸期間1年6カ月)も、新しい事務局員も決まりました。
総会で及川会長は「震災から間もなく2年。1年半で会員を60人から150人に増やし、民商を強くしましょう」と提起。全員一致で了承されました。
副会長に新たに選ばれた斉藤和彦さんは「会長は、震災後から一人で一生懸命頑張ってきた。その姿を見てなんでも協力したいと思った」と言います。妻の妙子さんも「会長の誠実さにほれています」と笑顔いっぱい。
再任された及川会長は新しい事務所の中でこうつぶやきました。「これからが大変。でも真の復興のために民商が頑張らねば」
復興支え民商が全力=岩手・福島・宮城
1万5000人を超える死者を出した東日本大震災から2年。今なお行方不明者は2600人を超えています。公共インフラの本格的な復興が進む一方で、避難生活は長期化。復興住宅は用地確保さえままならず、中小業者の存在の前提となるまちづくりそのものが大きな課題に直面し、“将来像を描けない”との声が業者からも出ています。被災地の民主商工会(民商)は、自治体に暮らしや店舗などへの独自の補助制度の実現を求めて奮闘。国が事業主体となっているグループ補助では、宮城・気仙沼本吉、石巻両民商での実現に続き、岩手・一関民商でも実現まであと一歩です。被災地の今と復興への課題に迫りました。
商談会に業者次々 70人が入会=いわき民商
福島・いわき民商は震災後、福島第1原発事故の賠償請求運動を通じて多くの入会者を迎え、震災前を上回って前進しています。
民商の活動範囲とするいわき市は、福島第1原発から30キロ圏内を一部含む地域を抱えています。風評被害により漁業や観光業に大きな影響が広がり、この2年間で約50人が退会しました。
しかし「原発で受けた被害を何とかしたい」「損害賠償請求はどうしたらいいのか」という声が民商に多数寄せられ、昨年の春の運動では、地元紙に約2万枚の「賠償請求相談会」チラシを折り込みました。すると次々に相談者が訪れ、この2年間でおよそ70人が入会しました。
いまだ収束のめどが立たない原発事故とそれに伴う被害に対して「東京電力は完全賠償を行え」「賠償金に課税するな」の要求に、今も多くの中小業者から共感が寄せられています。
賠償非課税めざし 70人が仲間に=福島民商
福島民商は震災後2年間で約70人の新しい仲間を迎えました。前進の力になったのは、全国からの支援、そして原発事故の賠償請求運動を通じた会員と役員、事務局の奮闘と成長です。
震災直後、「飯坂温泉に人がいない。異常事態だ」との声をきっかけに、市内随一の観光地である飯坂温泉で被害実態のアンケート調査を行いました。原発事故で観光客が激減していることから、11年6月には11人の弁護士や各地の民商・県連の援助を受けて、初めての賠償請求相談会を開催。45人が参加し原発問題で苦しむ業者の切実さを実感する取り組みとなりました。
伊達市はモモやリンゴなど果樹栽培が盛んな地域ですが、原発事故以後、出荷制限や自粛など大きな被害が出ました。ここでもアンケートをもって観光果樹園や商店街を訪問し説明会を開きました。
この間の活動で「民商とは要求を組織し、運動をつくるところ」という原点を学びました。民商は完全賠償や賠償金への非課税実現とともに「組織を大きくして班・支部を建設する」と決意しています。
21カ月連続で拡大 仮設団地に班建設=石巻民商
震災時、1階部分がほぼ浸水した民商会館。復旧して地域の業者のよりどころとなっています
震災によって宮城・石巻民商の会員・同居家族約80人の尊い命が奪われました。震災の影響による廃業などで、震災直後から会員が減少。退会者は2年間でおよそ150人に上りました。
「震災に負けるわけにはいかない」と役員中心に奮闘。津波と避難生活で断ち切られた商工新聞の配達・集金ルートの再確立のため、仮設住宅団地に班をつくり、すべての支部が支部総会を開催しました。「集まって、みんなと話がしたい」という思いに応える班・支部の大切さを実感し、組織配達は5割まで回復しました。
会員拡大ではグループ補助や労働保険加入の要求を通じて、11年5月からは毎月連続で入会者を迎え、会員現勢は震災前を上回りました。春の運動を通じて震災前の読者・会員数を上回り、会員1000人をめざす奮闘を続けています。
希望つないだ仲間の支援 被災地に船=岩手・陸前高田
共に新しい船の感性を喜び合う戸羽さん(後列中央)と家族たち
鮮やかな大漁旗をはためかせ、一隻の新船が岩手県陸前高田市内の漁港に着岸しました。陸前高田民主商工会(民商)の戸羽忠夫さん=漁業=は2月23日、「第十戸羽丸」(3.6トン)の進水式を迎えました。この日を迎えた戸羽さんを支えたのは、全国の民商の仲間の支援でした。
「第十戸羽丸」と染め抜かれた大漁旗を背に、船上で戸羽さんが興奮気味に語ります。「船を見た時は涙が出た。海で生活してきた自分が、これからも海で生きていけると思って」。
この日、仮設でともに暮らす孫3人を含む7人の家族や親せき、仮設住宅の人たちも集まり、もちまきで新船の到着を祝いました。「新しい船が来るのは、うれしいもんだからね」と話すのは、同じ仮設住宅の住民。1時間以上前から港で船の到着を待っていました。
戸羽さんは震災前まで、近海での刺し網漁とともに、ワカメやコンブの養殖などを30年にわたって営んできました。しかし2年前の津波で漁船や漁具、1機300万円したという冷蔵庫など養殖設備のすべてが流失、自宅も流されました。「これだけの被害から家族をどう守るのか。それを必死に考えた」と振り返ります。
漁ができる喜び
そんな戸羽さんに11年7月、広島・福山民商の仲間から届けられたのが一隻の小型漁船。「小さな船(0.6トン)だがエンジンも付いている。本当に助かった。これで漁ができる」。折れそうになっていた戸羽さんの心を支え、奮い立たせました。
さっそく操業のための手続きを行い、船に「戸羽丸」と命名。約1年間、近海でアイナメ、カレイなどの漁を行いました。獲れた魚は家族7人の食生活を支え、仮設住宅の住民にも配り喜ばれました。
「戸羽丸」で希望をつないだ戸羽さんは新たな一歩を踏み出す決意を固めました。国の補助制度も活用し、地元漁協を通じて11年9月には、新船建造を申し込み、「第十戸羽丸」の進水式にこぎ着けました。
元気と力もらい
進水式から3日後の2月26日、新船で最初の漁に出ました。「この時期の風は冷たいが、新船には小さいけど操舵室がある。体はだいぶ楽だよ」と笑顔の戸羽さん。網にかかったタラやアイナメを見て「支援で元気と力をもらったことに、本当にありがとうと言いたい」と感謝の言葉を繰り返しました。
「これからは今日より明日、明日よりあさって、そんな気持ちだね」と語る戸羽さん。三陸の海で生きてきた男の復興への熱い思いがあふれています。
訪問10回 被災地の心に寄り添う支援=京都・城陽久御山
「被災者が被災前の生活を取り戻すまでは」と京都・城陽久御山民商は、第10次にわたり宮城・気仙沼本吉、石巻の両民商や仮設住宅に支援を続けています(表)。被災者の心に寄り添った支援で、つながりも深まりました。
城陽久御山民商から被災地までは片道16時間。会員や地域の人たちを乗せたマイクロバス、物資を積み込んだ2トントラックが同行します。
何でもしたい
内田公昭会長=食堂=は、「震災から2年がたっても生活の拠点である家や店、工場もなく、将来が見えない中で生き続けている。やれることは何でもしたいね」と力を込めます。
被災者と京都からの支援者の間で大きな変化が生まれたのは、被災から1年がたったころ。当初の支援は、京都で物資を集め被災地に届け仕分けと配布することが主でした。継続的な支援を続ける中で支援者が、仮設住宅に住む会員や地元の人たちとの交流が生まれました。気仙沼市七半沢仮設住宅の集会所に寝袋持参で寝泊りするようになると、震災で家族を亡くしたことをせきを切ったように話す被災者や地域再生のために奮闘している会員とのつながりが深まりました。
時間を共有していく中で被災者から出されたのは、「畳の上で寝たい」「服のほころびを直すのに針や糸もない」「棚があれば、床にスペースができるのに」との普段の生活を取り戻すささやかな願いでした。
「すべての要望に応えよう」と、民商会員をはじめ、元教員や阪神・淡路大震災の支援経験者にも呼びかけ「心に寄り添う」支援へと発展しました。
第6次から始めた集まってお茶を飲む「ほっこりお茶会」もその一つで一緒に針仕事もしました。仮設改修や棚づけでドリルなど工具の音が響くと「うちもやってもらえるかな」と人が集まってきました。子どもたちの心のケアが必要と感じた昨年7月、サマースクールや夏祭りを開催。人が集まることができる支援になりました。
ぬくもり大切
内田会長や支援参加者たちは、「人と人が触れ合うぬくもりを感じる時間が大切」と話します。今では、支援者が仮設住宅に到着すると被災地の人たちが「お帰りなさい」と笑顔で迎えてくれます。
城陽久御山民商は、支援から戻るとすぐに民商ニュースを発行し現地の様子や支援の内容を会員に報告。次の支援に向けて打ち合わせを重ね、被災者たちが望む支援を心がけています。「ニュースを読んだ住民などから民商への問い合わせもある。業者や地域の人に、商工新聞読者になってもらい民商が活気づいている」と内田会長は話します。
第3次から支援に参加している、元教員の井上孝司さんは言います。「民商は全国の力を生かし、被災地の願いにこたえ多彩で人のぬくもり感じる支援を続けて、私たちも元気になりますよ」
自治体の対応格差深刻 仮設・復興住宅
仮設住宅で2年目の春を迎えた被災者の復興を望む声は日増しに強くなっています。今なお全国では32万人が避難生活を強いられ、生活再建への道を探っています。
十分に眠れず
「このまま仮設にいたらおかしくなる」と訴えるのは、宮城・名取亘理民商の早坂功記さん=基礎工事。津波で妻と自宅を失い、娘と孫と共に名取市内の仮設住宅で暮らしています。壁が薄く、隣人の話し声やドアの開閉音が響くため、気が休まらず、ぐっすり眠れません。薄いじゅうたんを引いた床は、底冷えがひどく、天井の結露にも悩まされています。
「風呂の追い炊き機能」「窓や玄関の2重構造」など、この2年間で改善されてきましたが、介護が必要な人への配慮や孤独死を防ぐ手だてなど、今も多くの問題が残ります。
「この地域に住んでいた人は、ほとんどが一軒家に住んでいたからね。隣と壁一枚で区切られた、小さい部屋での生活になじめない」と話すのは民商会長の荒川武さん=寝具販売。
仮設住宅に住む会員が民商事務所に集まると、「もとの場所に家を作ろうか迷っている」「うちの土地は危険区域になったから戻れない」と暮らしの話題に集中。土地の買い上げや集団移転、復興住宅などの自治体の動きが被災者の先き行に大きく影響しています。
岩沼市内に住むOさん=建築板金=は、集団移転先の場所も決定し、普通の住宅に12月ころの入居を予定しています。集団移転先の住宅について話し合う「まちづくり検討委員会」にも参加し、安堵の表情を浮かべます。山元町では宮城県でもっとも早い入居となる復興住宅の工事も大詰め。申し込みが殺到し、倍率は2倍です。まだ不十分ながらも、仮設から出られることが被災者に希望を与えています。
ローンが心配
仮設住宅からの引っ越しが決まっても問題は残ります。「うれしいことだけど、手放しには喜べない」と複雑な気持ちを吐露するTさん=釣り用品=は、津波で失った家と同じ場所に新しい家を建て、今月仮設を出る予定です。「放射能の影響もあり、釣りをする人も減った。これから住宅ローンを抱えて大丈夫だろうか」。前の家の住宅ローンは地震保険で補てんしましたが、不安は募ります。
震災から2年が過ぎた今、「緊急時の段階は終わり、被災者の生活には差が出始めている」と荒川会長は感じています。「被災地の本当の復興は、住民の安心できる家と暮らしがあってこそ。今後も国や自治体に求めていきたい」。地域住民重視の復興実現に向け、力を込めました。
先進自治体に学ぶ=復興支える助成制度
被災者、被災業者に対する補助制度をめぐって自治体間の格差が生まれています。すぐれた助成制度をすべての被災者・被災地に広げるための運動が、震災2年を迎えた今こそ求められています。
●岩手県宮古市
住宅支援が最大の事業となっている宮古市鍬ヶ崎地区
「宮古型リフォーム」として住宅リフォーム助成制度が全国に知られた岩手県宮古市。震災直後から独自の住宅再建に力を入れてきました。昨年12月には、応急仮設住宅から出た後の恒久住宅にかかわる追加的な手厚い住宅再建支援策を打ち出しました。
その一つが「被災者すまいの再建促進事業」。
国の制度として被災者生活再建支援法に基づく支援金で、住宅を新築したり購入する場合、最高300万円が支給されます。岩手県実施の「県被災者住宅支援事業」は、これに100万円の上乗せ助成(県3分の2、市3分の1負担)をしていますが、今回の「再建促進事業」では、宮古市がさらに独自に100万円を上積み助成します。
二つ目は「浸水宅地復旧支援事業」。津波の浸水で被災した宅地を復旧させるための工事費の一部を助成する制度で、地盤の整地、排水施設の設置工事なども対象。補助限度額は50万円となっています。三つ目は、09年から実施されている「地域木材利用住宅推進事業」。一定の割合で地域材を使用した場合、最大30万円が補助されますが、今回さらに30万円を上乗せ助成します。
市復興推進室では、「こうした制度に加え、太陽光発電の導入、バリアフリー工事、集団移転にともなう利子補給などを加えれば、理論上は1000万円近い支援が受けられる」と試算しています。
3つの追加支援策にかかわる予算は約14億円。滝澤肇・宮古市復興推進室長は「住宅再建が進まない中で、支援を手厚くすることが、その促進につながると考えた」と、手厚い支援策が政策的判断であることを強調します。
●宮城県柴田町
すでに終了した制度の中にも、今後参考になる制度があります。
宮城県柴田町の「震災住宅改修事業補助金」もその一つ。震災で被災した住宅の早期復旧のための補助金で、20万円以上の工事に対し、10万円を一律補助するもの。屋根、内壁、外壁、給排水設備、基礎、建具、玄関など大半の工事が対象です。
「半壊までは国などの補助制度がありますが、一部損壊は対象外。それでこの制度をつくった」と町の担当者。震災による町内の住宅被害で一部損壊とされたのは1684件。“震災リフォーム”は昨年10月末に終了しましたが、申請有効件数は1274件で、一部損壊の8割近い住宅が同制度を活用したことに。対象工事金額も9億1000万円を超えました。
同町担当者は「すごい反響で、20件を超える仕事をした業者もいます。被災した住宅改修の手助けにもなったし、町内の地域振興という点でも大きな役割を果たしたと思う」と語っています。
●宮城県栗原市
栗原市の小規模企業者災害復旧補助金は被災した小規模事業者の事業再建支援する制度で、対象となるのは施設(店舗、工場、事務所、倉庫等)や設備(建物付帯設備、内装、生産設備等)や施設の地盤復旧費と幅が広いのが特徴です。。30万円以上の工事が対象で、工事の3分の1を助成(補助下限10万円、上限100万円)しました。
11年5月に創設され、12年8月末で終了、補助交付件数は172件でした。
石巻、気仙沼市などでは、民商の運動によって小規模復旧工事を対象にした補助制度が創設されましたが、岩手、宮城県の制度では、200万円以上の工事が対象。小規模工事に対する助成はなく、自治体による小規模工事への補助制度の創設は、今後の大きな課題となっています。
全国商工新聞(2013年3月11日付) |