第2回・鮮魚商の怒りから原水爆禁止運動へ
両親の願いを引き継ぐ竹内ひで子さん(右)と増田みち子さん
「魚屋殺すにや3日もいらぬビキニ灰降りやお陀仏だ」―1954年3月1日、米国が行ったビキニ環礁・水爆実験(ビキニ事件※)の影響で魚が全く売れなくなり、鮮魚商の営業と暮らしは大打撃を受けました。鮮魚商らがその苦境を歌にして訴えたことが、当時の国会議事録にも残っています。全商連は、都内の鮮魚商組合員である民商会員を中心に直ちに対策会議を開き、原水爆の製造・実験の即時禁止を求め署名運動を呼びかけました。その翌年、平和を求める国民世論が一気に高まり、広島で「第1回原水爆禁止世界大会」が開催されていったのです。
ビキニ水爆問題に対し、運動の先頭に立って声をあげた菅原さん夫妻
「魚が全く売れなくて困っています!ビキニ水爆問題を取り上げてください!このままでは魚屋は閉めなければなりません!」
4月15日、東京・旧杉並区立公民館で開かれた区内婦人読書会主催の講演会で、杉並民商の菅原健一さん(故人・当時49)=鮮魚商=の妻・トミ子さん(故人・当時47)は訴えました。
鮮魚商や民商が進めていた原爆・水爆禁止を呼びかける署名を紹介。この時、講演した安井郁法政大教授(故人)は「これは全人類の問題です」と応じ、参加者を通して署名は一気に広がりました。その2日後には区議会で水爆実験禁止が決議されたのです。
5月9日には「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成され、8月8日の原水爆禁止署名運動全国協議会結成へと発展しました。
当時10歳だったトミ子さんの六女・竹内ひで子さんは「労働運動も経験していた母はとても肝の据わった人でしたが、思想信条の違うさまざまな婦人が集まる中で声を上げることは勇気のいることだったでしょう」と振り返ります。トミ子さんはその後、杉並区議も務めました。
原水爆禁止運動の発祥の地とされる旧杉並区立公民館(現在は荻窪体育館)の跡地に建てられた記念碑
夫の健一さんは、杉並民商会長として活躍。3月17日に、ラジオのニュースで水爆実験の実施を知りました。七女・増田みち子さんは「翌日から魚が全く売れなかった。注文取り消しの電話が相次ぎ、前の道を通る人は店を避けながら歩いていた」と証言します。
鮮魚店のみならず市場、仲買人、すし店など、商売に深刻な影響が出たため、東商連・全商連は都内の鮮魚商組合員である民商会員に呼びかけ対策会議を召集。東商連・全商連の指導で築地中央市場買出人水爆被害対策準備会が結成され、10万枚のビラを配布し、漁業者大会への参加を呼びかけました。
4月2日、東京・築地の中央市場に500人が集まり、水爆被害対策魚業者大会が開催されます。司会の前沢菊治浅草商工会(民商)会長(浅草魚商組合連合会常任理事・故人)は「痛いときは痛いと言おう。それが民主主義だ」とあいさつ。水爆被害の賠償、税の減免、原水爆実験即時中止などを決議し、国会や米国大使館などへ要請しました。
交渉団に参加した健一さんは、都や区議会への働きかけにも尽力します。みち子さんは「長男や次男が店を手伝っていたこともあって、両親は税金・生活の相談や運動にいそしんでいた。私や姉もバケツにサンマを入れて、近所に売り歩いた」と懐かしそうに振り返ります。
56年前に魚屋のおかみが上げた核兵器廃絶を求める声は、いま世界中に広がっています。
「自分のことだけではなく、相談活動を通した要求に基づいていたから多くの人の心に届いたのでは」とひで子さんとみち子さん。両親の願いを引き継ぎ、今も地域の平和活動に力を注いでいます。
ビキニ事件…1954(昭和29)年3月1日、米国は太平洋上のマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を実行し、諸島の人びとや日本漁船856隻が被災。爆心地から200キロ付近で操業していた焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」の船員23人は全員が被ばくし、その半年後に無線長だった久保山愛吉さんが血清肝炎で死亡しました。東京・築地市場に水揚げされたマグロなどから強度の放射能が検出され、486トンのマグロが「原爆マグロ」として廃棄されました。この事件を風化させまいと、毎年3月1日に静岡・焼津市で「ビキニデー集会」が開かれています。
歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年
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