1945~51年
敗戦の荒廃から立ち上がり、生活擁護・重税反対のたたかいのなかで全商連を結成
1951(昭和26)年8月3日の全国商工団体連合会(全商連)の結成大会は、「無届け集会だから警官3名を傍聴させよ、拒否すれば解散を命じる」という警察の干渉とのたたかいのなかでの開催でした。それは、全商連の結成がいかに時の権力にとって脅威であったか、そのことを示すものでした。
第二次世界大戦の終結後、日本国民は生活擁護・民主主義の徹底を求めて、焦土と化した祖国の再建に立ち上がりました。とりわけ中小業者は、生活手段を失った国民の生活を守るために、生産、流通などあらゆる面で献身的に奮闘しました。
アメリカの占領支配のもとにおかれた日本政府は、アメリカ占領軍と一体となって、国民に重税政策を押しつけてきました。暴力的な差し押さえ、押収が強行されました。
民主運動へのはげしい弾圧と大企業の横暴が荒れ狂うなかで、それとたたかう国民運動もいっそう燃え広がりました。
こうしたたたかいのなかでの全国商工団体連合会の結成でした。
1952~68年
全国商工新聞の発行、個人事業税撤廃運動、60年安保闘争、全商連会館の建設
全商連は結成と同時に、切実な要求の実現をめざし全国的に運動を展開してきました。結成の翌年には、機関紙「日本商工新聞」(のちに「全国商工新聞」)を発刊しました。
全商連が全国的に統一してたたかった個人事業税撤廃運動は、画期的な運動として、その後の自家労賃要求、分離申告、さらに国税通則法反対などの運動へと発展しました。
アメリカの水爆実験による「死の灰」の被爆から、原水爆禁止運動はひろがり、今日の世界大会へと発展していきました。民商・全商連は絶えずこの運動の中心的役割も担ってきました。
60年の安保闘争は日本の歴史上最大の国民的大闘争となりました。民商は各地の共闘組織に参加して「閉店スト」等でたたかいました。
この間、会員倍加という組織的な前進もかちとりますが、その前進を恐れた政府は、全国的に「民商つぶし」を展開します。「嵐は強き木をつくる」を合言葉に、さらなる拡大で「民商つぶし」をはねかえしました。こうしたたたかいのなかで全商連会館が建設されました。
1969~76年
営業と生活を守る共同行動の発展、「3つの理念」の確立、規約改正で民商・全商連の立場をより鮮明に
日本の大企業が次々と世界に進出していくなかで、アメリカは対米輸出規制にのり出しました。また、金とドルの交換停止などの新経済政策にふみ出し「ドルショック」をつくり出しました。その後、国際石油資本の日本供給10%削減から、「石油ショック」がはじまりました。中小業者に深刻な影響を与えるとともに、「物不足」が国民生活を混乱させ困難におとしいれました。各地で「石油危機から経営をまもる」運動が展開され、中小業者「110番」運動として広がっていきました。
1967年に首都東京に革新知事が誕生し、その後革新自治体は各地にひろがり、多くの住民要求を実現させる大きな力となりました。このころ公明党・創価学会の「言論・出版妨害」事件が明るみになり、これに抗議する民商・全商連への攻撃もくりかえされました。
70年、全商連は、これまでの運動を総括し3つの教訓(「3つの理念」)を明らかにしました。各地の婦人部・青年部の活動を交流し、それぞれ全国的な協議会として結成しました。
1977~89年
大型間接税導入阻止の運動と多岐にわたる営業と生活を守る運動の前進
革新自治体のひろがりや国政選挙での民主勢力の前進を恐れた政府は、革新分断・破壊にのりだしました。「社・公合意」もその大きな流れの1つでした。第2次臨時行政調査会(1981年)は、福祉・教育など生活関連予算を切り捨てました。85年のプラザ合意では日本経済をいっそうアメリカに従属させる方向を強めました。大型間接税・消費税の導入策動もくりかえされました。
こうしたなかで「軍事費を削ってくらしと福祉・教育の充実を」国民大運動実行委員会、大型間接税・マル優廃止反対各界連絡会などが結成され、運動は急速にひろがりました。89年4月、消費税は実施されましたが、その後の参議院選挙で自民党は惨敗、初の与野党逆転となりました。
全商連は80年代には会員数35万人を超え、中小業者運動のナショナルセンターとしての力を発揮するようになり、81年に中小商工業全国交流・研究集会を開きました。84年には、命と健康を守る運動として全商連共済会を結成しました。
また、85年1月から、これまでの「全商連資料」(1952年10月創刊)を「月刊民商」と改め文字どおり全商連の機関誌として充実をはかってきました。
1990年~
「基本方向」の確立、共通の要求でひろがる共同と全商連の存在意義の高まり
1991(平成3)年結成40周年をむかえた全商連は、翌92年の第39回総会で「民商・全商連運動の基本方向」を確立しました。この「基本方向」は、その後の民商・全商連運動に力づよい指針となってきました。
規制緩和の拡大、消費税の導入と引き上げ、それにつづく社会保障制度の連続改悪は、戦後最悪の消費不況をつくり出しました。さらに、大企業の横暴な下請けの切り捨てなどによって、中小企業の倒産は激増し、今日の大きな社会問題となっています。
全商連は日本経済の担い手である中小業者が「つぶされたまるか」と、共通する要求で多くの団体・個人に共同を呼びかけ、共感をひろげて奮闘してきました。
自民党政治への批判の高まりは自民党の単独支配を崩壊させ、以後、日本共産党以外の政党の離合集散が繰り返されました。
また、90年代は国際的にも激動の時代でした。中東での湾岸戦争の勃発や民族紛争の続発、さらにはソ連邦が崩壊しました。一方、東西ドイツの統一、さらに韓国、北朝鮮の平和的統一の方向がすすみ、21世紀にむけて大局的には確かな進歩の足取りを示しました。
21世紀こそ、地域を担う中小業者が日本経済の主人公となる展望が開かれています。
(1)民商・全商連運動は会員の利益・幸せだけでなく、中小業者全体、大きくは国民全体の幸福とつながっている。要求と活動方法が道理に合ったものであったからこそ、さまざまな権力的攻撃のなかで一貫して前進している。
(2)団結こそ何ものにも勝る宝である。みずからが大きく団結したときこそ、中小業者の切実な要求を実現することができる。
(3)中小業者は共通する要求で、労働者、農民などの国民各層とともにたたかうならば、その要求実現の道をさらに大きく切り開くことができる。
誇りある50年の歴史と新たな出発点に立って、民商・全商連は、運動と組織を支え、前進させるうえで大きな力となってきたこの3つの理念を堅持し、中小業者が日本社会の担い手となる21世紀を切り開くために、いっそう奮闘することが求められています。
*この文章は全商連創立50周年を記念して刊行された「民商・全商連の五十年」からの抜粋です。