1954年3月1日、アメリカは、南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を実施。静岡・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が、米軍の指定区域外で操業していたのに「死の灰」を浴びました。乗組員23人全員が被ばくし、同年9月23日に無線長の久保山愛吉さんが亡くなった「3・1ビキニデー」から間もなく71年です。3月1日以降も6回に及ぶ水爆実験で、日本の漁船約千隻と乗組員が被ばくしました。日本国内の反核運動の高まりなどを危惧した日米両政府が、わずかな慰謝料で不当な幕引きを図り、被害者が放置された未解決の事件です。
汚染されたマグロが水揚げされ、すし屋、鮮魚商らが大打撃を受けました。東京・杉並区の民商会員らが始めた原水爆禁止署名は、翌55年には有権者の過半数となる3200万人に達しました。この運動が、同年8月6日に広島市で開かれた第1回原水爆禁止世界大会や、昨年、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の結成(56年)に、つながりました。米軍による報道規制もあり、広島、長崎の被爆者が初めて声を上げたのも、被爆から9年を経たビキニ事件が、きっかけでした。
戦後80年、被爆80年の今年核保有国のロシアやイスラエルが当事国となる戦争や紛争が続き、核使用の懸念が、かつてなく高まっています。こうした情勢の下、核兵器禁止条約が”国際的な規範としての力”を発揮しています。
一方、日本政府は、禁止条約への参加の検討も行わず、3月の第3回締約国会議へのオブザーバー参加すら拒否しています。
日本被団協のノーベル平和賞受賞によって、禁止条約への参加を求める声は日増しに大きくなっています。全商連も加盟する原水爆禁止日本協議会は「非核日本キャンペーン」を行い、自治体決議や原爆パネル展、署名を広げ、日本が戦争被爆国としての役割を果たすよう求めています。
3・1ビキニデーは「平和でこそ商売繁盛」を信条とする民商・全商連の平和運動の原点です。被爆者の「二度と核兵器を使わせてはならない」の思いに応えて参加を強め、「核抑止論」を打ち破る世論を大きく広げましょう。