京都・伏見民商婦人部長 藤本千賀子さん=染匠あめや藤本
全商連婦人部協議会(全婦協)は1974年12月2日に、業者婦人の要求実現と社会的・経済的地位の向上をめざして結成され、今年で創立50周年を迎えます。各地の民主商工会(民商)婦人部は、一人一人の商売や暮らしの困難を、集まって何でも話し合い、解決する運動を積み重ねてきました。「民商婦人部の仲間がいたから、40年もの間、商売を続けて来られた」と語るのは京都・伏見民商婦人部長の藤本千賀子さん。京都市下京区で「染匠あめや藤本」を、夫の最慶さんと娘、息子夫婦とともに営んでいます。
公務員から商売の道に
「ここまで来られたのは、婦人部のおかげ。民商の婦人部学校で習ったことが、商売の糧になっている。商売のことなんかも一人で悩まんで、相談する組織を大事にしてほしい。相談したら必ず返ってくるから」―。
千賀子さんは、幼稚園の先生で公務員として働いていた1975年に、最慶さんがまだ勤め人だった頃、結婚しました。最慶さんが1983年に着物作りの染匠として独立したのを機に、西も東も分からない商売の道に入りました。翌84年に民商へ入会。以来、婦人部員として、商売とともに歩みを重ねてきました。
「最初は、役員さんが自家労賃の署名を家に持って来てくれても、よく分からないまま署名していた」と懐かしそうに目を細めます。
婦人部活動に関わるきっかけは1992年に、バブル経済の崩壊で不動産の評価額が暴落し、銀行から借入金の担保割れを指摘され、返済を強く迫られたことでした。
当時、記帳は義理の母と税理士に任せていましたが、婦人部の集まりで「あなたが帳簿を付けないとだめよ」とアドバイスを受け、婦人部主催の「記帳教室」に通いました。新潟県産の紬をまとう千賀子さん(右)。麻美子さんの着いこう物は京都の丹後地方で三層に織られた織り地紋。衣桁に掛かる流水に雲取りの訪問着は最慶さんが作ったもの 「ここまで来られたのは、婦人部のおかげ。民商の婦人部学校で習ったことが、商売の糧になっている。商売のことなんかも一人で悩まんで、相談する組織を大事にしてほしい。相談したら必ず返ってくるから」―。
千賀子さんは、幼稚園の先生で公務員として働いていた1975年に、最慶さんがまだ勤め人だった頃、結婚しました。最慶さんが1983年に着物作りの染匠として独立したのを機に、西も東も分からない商売の道に入りました。翌84年に民商へ入会。以来、婦人部員として、商売とともに歩みを重ねてきました。
「最初は、役員さんが自家労賃の署名を家に持って来てくれても、よく分からないまま署名していた」と懐かしそうに目を細めます。
婦人部活動に関わるきっかけは1992年に、バブル経済の崩壊で不動産の評価額が暴落し、銀行から借入金の担保割れを指摘され、返済を強く迫られたことでした。
当時、記帳は義理の母と税理士に任せていましたが、婦人部の集まりで「あなたが帳簿を付けないとだめよ」とアドバイスを受け、婦人部主催の「記帳教室」に通いました。
不当な調査で裁判も
経営のイロハを学ぶ月1回開催の「婦人部学校」にも参加し、自ら帳簿を付けたことで、銀行の利払いなどが経営を圧迫していることが会社の弱点だと気付きました。
「元金の返済を、いったん止めることができれば、必ず立て直せる!」。千賀子さんは最慶さんと相談し、銀行と交渉の場を設けました。当初、銀行は「ブラックリスト入りする」と難色を示しましたが、支店長に今まで付けてきた帳簿を示し、「1年後には展望が見える」と自信を持って説明しました。支店長が「しっかり記帳していて、ご夫婦で一緒に頑張って商売されていたのが決め手」と判断し、元金の返済ストップを勝ち取ることができました。
1993年には不当な税務調査によって消費税の仕入税額控除を否認され、その後、10年にわたる裁判を婦人部の仲間の支えも受けてたたかいました。仲間たちが「自分の問題と同じやで」と裁判の傍聴に来てくれるなど、寄り添って励まし、支えてくれました。
千賀子さんは自らの経験を元に「婦人部のみんなには本当に助けられた」「元金の返済ストップは恥ずかしいことやない」「税務調査に入られても、一緒に頑張ろう」などと婦人部員に伝え、銀行交渉などにも積極的に同行。困っている部員に心を寄せ、日々奮闘しています。
地域で56条廃止署名
婦人部は2017年以降、全国業者婦人決起集会に合わせて、会外業者を訪問し、業者婦人らの働き分を必要経費と認めない所得税法第56条廃止の個人署名と団体署名を集めています。伏見区内の他の女性団体を中心とした44団体に、担当者を決めて、署名の協力を申し入れてきました。今では顔なじみとなり、署名も集まりやすくなりました。千賀子さんは「最近では、さまざまな人が集まる商店街でも、署名をしてもらえるようになりました」と運動の広がりに確信を深めています。
千賀子さんの息子・信彦さんの妻・麻美子さんは「民商の事務所に行くと、皆さんが声を掛けてくれます。もっともっと勉強して、いろんなことを吸収したいです」と話します。麻美子さんは、千賀子さんと同様、商売は未経験。結婚を機に「染匠あめや藤本」に入りました。
10年前から、千賀子さんとともに接客をはじめ、検反や染め替え、仕立て、洗い張りなどの作業を担当し、婦人部活動にも参加しています。「婦人部の集まりに、お嫁さんも一緒に来てくれてええな、と言われるんです」と千賀子さん。「麻美子さんは、一人で着物の着付けもできるようになって、今は立派に接客もできる」と表情を緩めます。
働き分認めさせたい
今後、代替わりするに当たって、56条がある限り、麻美子さんの働き分が認められないことが、千賀子さんの気がかりです。
「56条は、税金だけの問題ではなくて、権利が害されているんです」と千賀子さんが憤ると、「婦人部の勉強会で56条の問題を知ったときは、ええーっ?と驚きました」と麻美子さんも力を込めます。
商売と婦人部活動に、まい進する千賀子さんを、近くで見てきた麻美子さん。「お母さんが、いつも本当に頑張られてきたのを見ている。時代遅れの56条を変えたいと心底、思います」
家族一人一人が誇り
千賀子さんが婦人部活動と日々の商売を両立できたのは、いつも「行っておいで」と、気持ち良く送り出してくれる家族がいたから。
最慶さんは、婦人部の集まりから帰宅する千賀子さんを最寄り駅まで迎えに行くのが習慣です。開業当初、3畳一間の事務所の頃から、寝る間も惜しんで職人さんの作業場を奔走し、お茶席専門の着物工房として、展示会や茶道教室を開き、盛り立ててきました。最近では、SNS を使った宣伝にも挑戦しています。
長女の千津子さんは主に経理を担当。経費かどうかの判断など、お金のことは安心して任せられます。
息子の信彦さんは、染匠として着物の意匠を考え、日々、職人さんたちとやり取りし、全国各地の問屋や小売り店へ旺盛に営業に行っています。
家族一人一人が大切な役割を果たしている工房「染匠あめや藤本」に、千賀子さんは誇りを持っています。
「染匠あめや藤本は、京都の伝統産業の着物を正しく引き継ごうと、生地から国産の織物を使用しています。これからも、京都の職人たちを守る物作りにこだわり続けます」
染匠
京手描友禅の意匠を考案し、14~15工程に分業化された着物製作の全般を統括し、着物を作り上げる仕事。