福島 原発事故の教訓忘れるな

東日本大震災と福島第1原発事故から、間もなく14年。政府はこの間、復興特別所得税の約半分の2千億円を軍拡財源に充てようと画策したり、「可能な限り依存度を低減する」としていた原発を「最大限活用する」に転換した新たなエネルギー基本計画を閣議決定するなど、震災の教訓を忘れ去ったかのような態度を示しています。被災3県(岩手、宮城、福島)の民主商工会(民商)会員は、14年間という年月を、どんな思いで過ごし、いま何を感じているのか―。苦難や悲しみに直面しながらも、生業と地域の再建に奮闘してきた姿を追いました。
古里への思い写真集に
相双民商 婦人部 馬場靖子さん=元畜産・農業


「津島(福島県浪江町)には、豊かな自然と温かい人々、穏やかな日常の営みがあったんです」―。懐かしさと悔しさをにじませながら、こう話すのは、福島・相双民商婦人部員の馬場靖子さんです。
昨年10月、写真集『あの日あのとき古里のアルバム私たちの浪江町・津島』を発刊しました。写真集を開くと、里山や田園風景、農作業する人たち、楽しそうに遊ぶ子どもたち…。原発事故前の津島地区の姿が紹介されています。ページをめくっていくと、原発事故後、放射能汚染によって住民不在となり、荒廃していく様子が映し出され、胸に迫ります。
カメラで告発を


「原発事故で、みんなバラバラになってしまいました。まさか、津島が無くなるなんて、思ってもいなかった」。津島全域が帰還困難区域となり、県内陸に位置する「会津地方」の喜多方市に避難した靖子さん。畜産と稲作農業とともに、浪江町議(共産)を務めていた夫の績さんは、町に隣接する二本松市での避難生活となり、別々の暮らしを強いられました。
古里を奪われた当事者として、告発することが大事だと考えた靖子さんは、悔しさや悲しさを感じながらも津島を度々訪れ、写真に収めました。2001年に小学校教諭を退職してから趣味にしていたカメラ(写真撮影)が、思わぬ形で生かされました。
原発事故から14年がたちますが、津島の大部分はいまだに避難解除がされず、多くの人が古里を奪われたままです。高齢のため帰るのを諦めた人、避難先で亡くなった人もいます。避難先で妻に先立たれ、独居となった男性は、績さんに電話で「1週間、誰とも話していないんだよ」と話したそうです。
共感多く希望も
馬場さん夫婦も、相双民商に籍を残しつつ、二本松市と郡山市の間に位置する大玉村に移り住みました。24年1月には、野生動物に荒らされた津島の自宅を解体。避難解除の見通しが立たないがゆえの、苦渋の決断でした。
「復興から取り残された人たちがいる。古里が無かったことにされては、たまらない」―。そう考え、写真集の発行を決意しました。所在が分かる津島の人たちに写真集を送ると「すごく懐かしい。ありがとう」「一晩中、泣きながら読んだよ」と喜ばれました。写真集を手に取り、里山の穏やかな暮らしに共感してくれる人が多くいることに、希望も感じました。これからも体力が続く限り、津島を撮り続けようと決意しています。
「政府は、多くの国民が震災と原発事故を忘れかけていると思って、原発推進という『本音』を出してきたのではないでしょうか。地震大国日本で、新しい原発を造ろうなんて、とんでもない。私たちを無視しないで」
再エネで循環型経済へ
須賀川民商 谷藤允彦さん=㈱ふくしまエネルギー塾
白河民商 副会長 鈴木清文さん=㈲清峰設計建設

「政府は、福島原発事故から何を学んだのかと、問わずにはいられない」―。こう語るのは「㈱ふくしまエネルギー塾」(福島県須賀川市)取締役で、須賀川民商会員の谷藤允彦さんです。
東日本大震災と原発事故で、地域が崩れていく様子を目の当たりにしました。
二度とこんなことは起こしてはならない―。脱原発をめざす市民が集い、2013年10月から学習会を始めました。そのメンバーらが中心となって14年11月、市民共同発電所の運営主体として、同エネルギー塾が設立されました。現在、16人が株主となり、第1号・越久発電所(47.2キロワット)、第2号・仁井田発電所(350キロワット)の2カ所が稼働し、年間約1200万円の売電収入を得ています。3年後の28年度に、累計損益が黒字に転換する見通しも立っています。
原発活用に憤り
2月18日、政府が新たに閣議決定した「第7次エネルギー基本計画」が、原発の再稼働や新増設など「最大限活用」を打ち出したことに、谷藤さんらは強い憤りを感じています。エネルギー塾は2024年度、両発電所がそれぞれ4回の出力制御を受け、6万4千円の損失が発生しました。「『再生可能エネルギーと原子力をともに最大限活用していく』などというのは欺瞞です。東北電力は昨年末、女川原発を再稼働させましたが、その影響で、出力制御がさらに強まり、採算の悪化が懸念される」と語気を強めました。
「原発の依存度を上げていくような政府方針には大いに反対」と話すのは、白河民商副会長で、㈲清峰設計建設を営む鈴木清文さんです。エネルギー塾設立当時からの株主で、取締役です。市民の一戸建て住宅への、太陽光パネル設置も手掛けます。原発事故発生当時、県連青年部協議会の議長だった鈴木さん。
「青年部で被災地ボランティアに参加して、避難したまま地元に帰れなくなった人たちの話を聞いてきた。今なお古里に帰れない人たちが大勢いる。防潮堤などハード面の復興事業が終了しても『人の心』の復興ができていません」
375億円規模
個人住宅の太陽光発電には①電気料金の節減②脱原発・地球温暖化防止への貢献③地域循環型経済への貢献―のメリットがあると考える谷藤さんと鈴木さん。県内で375億円の市場規模を見込んでおり、中小業者の力が発揮できる分野だと言います。
谷藤さんは「国は原発回帰の第7次エネルギー基本計画を撤回し、再エネ普及に本腰を入れてほしい。既存住宅用を含む太陽光発電への支援は、再エネ政策の中心的課題」と力を込めました。
中小業者が地域の復興を支え
岩手 奇跡のたれを引き継ぎ
「やきとりわたなべ」宮古民商 渡邉忍さん

津波から奇跡的に残った”秘伝の焼き鳥たれ”を受け継いで「やきとりわたなべ」を営んでいるのは、岩手・宮古民主商工会(民商)の渡邉忍さん。JR宮古駅から徒歩10分、宮古大橋のたもとに店を構えます。
店は、父親の昭伸さん、母親の故・美子さんが精肉店として1978年に創業。当時から販売していた焼き鳥が人気商品でした。約40年前に焼き鳥居酒屋に業態転換し、今に至ります。農協職員だった渡邉さんは、2018年に店を継ぎ、2代目として奮闘。自慢の絶品のタレを、つぎ足しながら、父が作り上げた味を守っています。
全て流された… つぼだけが残り

渡邉さんは震災当時、市内の内陸部の職場にいて、無事でした。「両親の安否が心配でした。翌日、避難所で偶然会えた。二人とも警報を聞いて避難していて、ホッとしました」
しかし、店舗は津波に飲み込まれていました。「店の前には乗用車が積み重なり、1階部分は土砂や、がれきで埋まっていました」
「全てが流されてしまった」と諦め、座敷席のある2階に上がった渡邉さん。残された机の上に秘伝の焼き鳥たれが入った、つぼが残っていました。「普段は、父が調理場で調合、保管していました。そのつぼが、津波で押し上げられたのだと思いますが、誰かが置いたように、ちょこんと乗っていました。奇跡だと思い、すぐに両親に届けました」
被災した店舗は建て替えが必要との判断で、解体されました。震災から5カ月後の2011年8月、両親は店を再建します。「2人とも店が無くなって、生きがいを奪われたようだった。店を1日でも早く始めたかったのだと思います」
「父を支えて」と 母の言葉で決心

しかし、店舗の再建は一筋縄ではいきませんでした。「もともと2階建てだったので、同規模での再建を検討しましたが、災実危険区域の規準が定まっておらず自治体から許可が下りなかった。だから、平屋建てなんですよ」と説明してくれました。
渡邉さんは、周りから「店を継がないの?」と聞かれることが多かったと言います。継ぐ決心につながったのは、2016年に亡くなった母・美子さんの「父を支えてほしい」という言葉でした。
「両親の代からの常連さん」に加え、「近くの学校や企業の転勤などで宮古市に来た人」も、職場の口コミで来店してくれるそうです。民商でアドバイスを受けて始めたインスタグラムが新たな客層を呼び込み「先日も、八戸市(青森県)から『インスタを見た』という方が訪ねてくれました」
いま物価高騰の影響を大きく受けています。「食材も、調味料も前年から2倍ほど値上がりました。コロナ禍以前にまで客が戻らない中で、新商品などをアピールして何とか店を残したい」と言います。
その一方で、お客との会話から少しずつ復興を実感しています。「若い男性客が『釣りをするために宮古に来た』と話していたんです。震災以降、レジャーや観光が『不謹慎だ』と言われていた時に比べたら、大きな変化に感じます」
店を継いで間もなく、コロナ禍に見舞われ、試行錯誤を続けてきた渡邉さん。ボイルしたコブクロに自家製ホルモンたれで味付けした「コブクロ漬け」など、メニューを改良しながら「常連客も、新規客も、笑顔があふれる店を続けていきたい」と力を込めます。
宮城 地元業者の連携を築く
「㈲今野住建」名取亘理民商 今野顕介さん


「地域に根差した町場の大工として、身の丈にあった仕事を、これからもやっていきたい」。こう話すのは、宮城・名取亘理民商の今野顕介さん(40)。従業員(職人)6人を率いる「㈲今野住建」の代表取締役です。
尋常でない光景記憶も断片的に

同社がある名取市は、仙台市の南隣、太平洋に面し、東日本大震災による地震と津波で、関連死を含めて千人近い市民が犠牲になりました。最大1万1千人を超す人々が避難を余儀なくされ、半壊以上の建物は5千棟を超えました。
2019年に亡くなった父親の文秀さんが営む今野住建に、2008年に23歳で入社した顕介さん。震災時は、引き渡し直前の新築物件の現場から、トラックで資材を運搬している最中でした。
まるで”世の終わり”のように思えた強烈な揺れ。海岸から5~6㌔ほど離れた地点の増田川で、水がさかのぼり、自動車が押し流される様子を目の当たりにしました。「当時は、それが津波だと分かりませんでした。車内のテレビにリアルタイムで映し出される尋常でない光景が、あまりにも衝撃的だったのか、当時の記憶は断片的です」
妻の美沙さんと、おなかの子ども、当時1歳の息子は、自宅から同じ市内の実家に避難していて無事でした。会社のある地域の被害は小さく、電気、水道、ガスなどのライフラインが止まったくらいでした。
父・文秀さんは直後から、近所や顧客の物件を「大丈夫ですか」と訪ねて回り、会社には「瓦が落ちた」「家にひびが入った」などの問い合わせが相次ぎました。2日かけて従業員全員の無事を確認し、3日目から、復旧作業に乗り出しました。新潟や山形など他県の職人の手も借り、時折大きく揺れる余震の中、屋根の復旧作業に奔走しました。「『いつになるんだい』と次から次に問われ、心が病みそうになりました」
震災からほどなくして、家を失った人々への「復興公営住宅」の建設が進められました。しかし、多くの自治体で、都市再生機構(UR)や大手が手掛けていたのが実情でした。
当時、民商副会長だった文秀さんや商工新聞読者で市建設業者会の相澤俊介会長(当時)、市商工会工業部会の中澤勝巳部会長(当時の民商副会長)は「地元の復興公営住宅は、地元の建設業者に」と声を上げ、市と交渉。協議会方式を提案し、地元業者が全ての一戸建て住宅を受注する道を開きました。
3人が中心になり立ち上げた「一般社団法人名取市復興公営住宅建設推進協議会」(協議会)は、地元業者55社(元請け、設計、電気、水道、建材など、現在32社)が連携して、2017年11月までに270戸を建設し、市に引き渡しました。
「ライバル社」が信頼関係を結び
顕介さんは当時、今野住建の専務でした。協議会の品質管理担当として、経験も、得意分野も異なる、それぞれの業者が均一の品質を保てるためのルール作りなどに取り組んできました。「それまで、一緒の現場を経験したこともない『ライバル社』同士。会議を毎週開き、情報交換して、問題を一つ一つ解決していきました」
協議会の経験は、それぞれの業者に、行政との付き合い方、書類の作成方法などの経験や信頼関係をもたらしました。今も、各業者の公共事業の受注などに結び付いています。
「父やベテラン経営者、職人たちから厳しく仕込まれました。協議会の仕事が、技術や経験を継承する場にもなりました」と話す顕介さん。2018年6月に会社を引き継ぎ、現在は協議会の会長も務めます。
「協議会が一番最初に手掛けた住宅の完成から10年たち、アフターメンテナンスなどが今後の課題です。せっかくできた地元業者のつながりを、今後も生かしていきたい」と展望を語ります。震災からの復旧・復興の経験が顕介さんの根っこにあります。「地域に支えられ、地域を支える業者として地元に貢献したい」