「いない いない ばあ くまちゃんが ほらね いない いない……」。ページをめくると、両手で顔を覆っていたクマが「ばあ」と目をぱっちりさせます。1967年に出版された『いない いない ばあ』は日本中の赤ちゃんを喜ばせ、半世紀以上たった今でも年間約20万部、累計では735万部を誇る日本で一番愛される絵本です。この絵本をはじめ、紙芝居などを出版している「童心社」が「インボイス制度の導入は反対」と声を上げ、インボイス発行事業者に登録しない絵本作家や取引先と、従来通りの取引を継続すると表明しています。
「童心社」代表取締役社長 後藤 修平さん
「この制度は、相当まずい」。2019年10月、消費税10%への増税と複数税率が実施された時、インボイス制度の内容を知った同社の後藤修平・代表取締役社長は危機感を抱きました。
取引先の8割が免税事業者と推測。その分の消費税を負担すれば、納税額は数千万円に上ります。「対応をどうするか」。後藤社長は頭を悩ませました。
500社に文書送付
「一緒に仕事をしている作家さんやデザイナーさんの顔がちらつくわけですよ。すると、『消費税をお願いします』『駄目なら原稿料から引きます』とは、とても言えない。その人の作品や原稿、デザインが欲しくて仕事をお願いしているので、『登録事業者』で代わりを探せばいいという話では、ないわけですよ」
役員会でも「免税事業者に消費税の負担を求めるのは無理」で意見が一致。今年1月、絵本作家をはじめ取引先500社に「インボイス(適格請求書)発行事業者登録番号に対する弊社の考え方及びご通知とご提供のお願い」を送付しました。
「出版業界では著者や製作に携わるフリーランス等が免税事業者であっても『インボイス』の発行をお願いせざるを得なくなり、出版に携わる人々の関係を悪化させたり、免税事業者である人々が取引から排除されたりすることが起きかねず、出版活動に支障をきたす懸念が大きい」と強調し、「インボイス制度の導入に対しては、反対であることを表明いたします」「免税事業者の方に『番号登録』をお願いすることはいたしません。その場合も従来通りのお取引の条件の継続を基本とさせていただきます」などの考え方を伝えました。
「数千万円は大変な負担ですよ。その分、利益が減るわけですから。損失分を補うため、どうやって売り上げを伸ばすか…」。後藤社長は20人ほどの社員と一緒に、その道を探っています。
紙芝居の出版にも影響を与えかねません。毎年、絵本や児童書は40点、紙芝居は30点ほどを出版。紙芝居の累計出版点数は2400点を超えますが、今でも毎月定期的に新刊を出版しているのは、童心社だけです。
「絵本と比べ紙芝居は点数も少ないし、重版部数も小さいので、恥ずかしながら作家さんに原稿料をたくさん払えません。それでも、紙芝居を大切にして作品にしてくださり、技術を持っている小規模な業者とも協力して紙芝居を製作してきました。そういう人たちを切り捨てるなんて、ありえない」と後藤社長は怒っています。
童心社は1957年3月4日、紙芝居の出版社としてスタートしました。その後、絵本や児童図書へと分野を広げました。4階建ての自社ビルは現在、東京都文京区の閑静な住宅街の一角にあります。4階には「紙芝居の文化や魅力、楽しさを世界に発信したい」との思いを込めた「KAMISHIBAIホール」があります。紙芝居の上演会が開かれ、地域の子どもたちが参加し、文化に関する講座や研究会なども開かれています。
舞台裏の棚には紙芝居がぎっしりと並び、その中には日本が侵略戦争に突き進む中で演じられた『軍神の母』も。息子の定を中学に通わせるため身を削って働く母サク。その苦労を見て涙を流す定は、中学卒業後、海軍兵士となり、戦争が始まると同時に壮絶な戦死を遂げる物語。戦争中1850万人が見て涙したといわれます。戦意高揚に利用された紙芝居は戦後、極東軍事裁判で戦争責任が問われ、紙芝居がいかに日本中に広く深く浸透していたかを裏付けました。
平和を子どもに
戦後、童心社は紙芝居の「負の歴史」と決別し、「平和で、人間の生命を大事にし、子どもを愛する紙芝居づくり」をめざしてスタート。その精神は、今日まで受け継がれています。後藤社長が入社したのも、平和への思いが原点です。
「米ソの『冷戦時代』だった子どもの頃、親に原爆写真展に連れて行かれ、核戦争の恐怖を感じました。早乙女勝元先生の『猫は生きている』を読んだ時も、怖かったことを覚えています。東京大空襲を題材にした話で、赤ちゃんを守るため、お母さんが爪が剥がれるまで穴を掘り続ける描写が恐ろしかった。『はだしのゲン』を読んだ時も“戦争をやめるにはどうしたらいいのか”と、子どもながら真剣に考えましたね」
真実を知り、伝えるためテレビ局や新聞社への就職も考えましたが、「スポンサーや広告主が付いているのではないか」と思いを巡らせ、たどり着いたのが児童書の出版に関わることでした。
「戦争や平和の問題を取り上げた児童書を次々と出版できるわけじゃありませんが、人権感覚や想像力、知的好奇心が育つ中で子どもたちの世界が広がり、『平和な世の中がいいよね』『戦争はやっちゃ駄目だよね』という思いにつながればいいな、と」
戦争の悲惨さを正面から訴えた絵本も多数出版。昨年4月に出版した、沖縄戦を取り上げた『なきむし せいとく沖縄戦にまきこまれた少年の物語』は第54回講談社絵本賞(旧出版文化賞)を受賞しました。ロングセラー絵本『じごくのそうべえ』で知られる絵本作家・田島征彦さんの作品です。田島さんの「こんな恐ろしいことが、ほんの70数年前に起きていた。それは珍しいことではなくて、今も世界のどこかで起きている。戦争を起こさせないために、努力せなあかんのです。絵本を読んで、大人も子どもも一緒になって、考えてもらいたい」との思いが込められています。
未来を閉ざすな
書籍や雑誌が売れない出版不況や少子化にもかかわらず、同社の売り上げは、それほど落ち込んでいません。しかし、子どもの出生数が昨年80万人を割り、今後の影響が懸念されます。
「未来が描きづらい世の中ですが、どんなに厳しくても、面白い作品や良心的な作品、美しい作品は待たれています。紙芝居は、日本が生み出した独自の文化財です。奥が深くて、面白い!磨き続ければ、決して無くならない」と胸を張ります。
「インボイス制度は、絶対に反対。作家さん、フリーランスが主な取引先である出版社は大変なことになる。大切に育んできた絵本や紙芝居作りの未来を閉ざさないでほしい」