【敬老の日特集】百寿、卒寿超えても 商売も民商も元気に|全国商工新聞

全国商工新聞

 19日は「敬老の日」。長年にわたって地域や社会に貢献してきた人たちを敬い、長寿を祝う日です。百寿、卒寿を超えても商売や活動に力を発揮する民主商工会(民商)会員に、商売や民商への思い、元気の秘訣などを聞きました。

仲間の熱意と愛情に感銘 戦争は絶対に反対

福岡・八幡西民商 清水 義則さん=駐車場経営

「お金のやり取りや見回りなど、やることは結構あります」と語る清水さん

 北九州市内の黒崎で駐車場経営をしています。昭和の初め、父が木材業を開業し、東京から帰った私が、1965 (昭和40)年に法人化して、以後、経営を引き継ぎました。10年後には、木材置き場を改造して、60台を収容できる駐車場を隣地に造りました。
 私の駐車場はコインパーキングではなく、「1時間100円」の時間決めですから、領収書の発行や現金の受け渡し、駐車場の見回りなど、仕事は結構あります。帳面も記帳も自分でやっています。命ある限り頑張りたいね。
 民商との付き合いは60年。木材業の法人化や記帳、申告のことなど、当時、設立間もない民商の指導を受けました。
 民商でたくさんの魅力的な人に出会いました。仕事上のことだけではなく、人間愛にあふれた精力的な人たちです。全商連の太田義郎会長からは、京都で憲法の講演を聞く機会があり、驚きました。大学に再入学して勉強したそうです。元福岡県連の森茂雄会長(在任期間1976年~2000年)は、妻のがん治療で大分から毎朝、博多の事務所に通勤していました。県連だけでなく、全国の役員の一人としても頑張っている、その熱意と愛情には頭が下がりました。
 元気で頑張ろうと思えるのも民商で出会った人たちの存在がハッパをかけてくれるからです。一国一城の主として経営者も職人も、頑張っている。こういう人たちといたら、自分も成長していけます。
 私は14歳の時、少年兵として1945(昭和20)年1月に南方戦線に行くことが決まっていました。でも数カ月の年齢不足で命拾いしました。その時の同年兵200人は行方不明のままです。子どもまで戦争に参加させる政治には、絶対に反対です。

今の社会には民商が必要 商工新聞の配達、集金も

東京・中野民商 勝又 嘉子さん=不動産賃貸

柴崎友夫さん(右)から商工新聞を受け取り、配達、集金もしている勝又さん

 今年4月に101歳になりました。水曜日には、中野民商の役員の柴崎友夫さん=クリーニング=から商工新聞を3部受け取ります。2部は近所の読者に届け、集金もしてますよ。
 新聞は届いたら、すぐ開きます。「のんき通り」「東から西から」…。面白いのよね。「7つのちがいさがし」も絶対にやるわ。どうしても1個は見つからなかったりしてね。一番好きなのは1面の「経営プラス」。全国の皆さんが、大変な中、工夫して頑張っていることが伝わってくるから。
 私も、30年ほど前から不動産賃貸をしています。自分で記帳して、毎年、3・13重税反対全国統一行動にも参加しています。来年は行けるかしらね。でも、経費の領収書とかを集めて、今から準備をしてますよ。
 私は1921年、静岡県御殿場町(現御殿場市)生まれ。官僚だった夫の仕事の都合で、21歳の時、日本軍占領下の蒙古連合自治政府の首都である張家口に渡りました。1年ほどで終戦を迎えましたが、混乱する引き揚げ船の上で、幼い長女を失うという、つらい出来事も経験しました。日本に戻ってきてからも、肺結核や脊椎カリエスなどを患い、10年の闘病生活を余儀なくされました。
 病気回復後に上京し、共産党の中野区議会議員に。自分が議員に、なんて夢にも思わなかったけれど、女性たちの声を聞いて頑張りましたよ。区に無かった保育園や児童館もつくって。73歳まで務めあげました。
 私の人生は戦争と時代に翻弄されてきました。人は社会とは切り離せない。その中で、選んで生きていくしかない。だからこそ、平和で安心して暮らせる社会でないといけないのよ。社会の中に、民商のような進歩的な場所がたくさんあった方がいい。なくちゃいけない。そういう仲間が増えてほしい。
 元気な秘訣はね、とにかく歩くこと。1日1回、30分は必ず歩きますよ。歩いて脳に刺激を与えなくちゃ。家でテレビばっかり見ていたら、絶対駄目。人間として人生を全うしなくちゃね。そのためには、商工新聞の配達やパズルを解くのも本当に、いいのよ。

高い技術で迫力ある庭を 今も頭はフル回転

大分・豊肥民商 高橋 幸吉さん=造園

高橋さんが手掛けた庭。「掛け軸みたいな奥行きを感じさせるのが技術」と語ります

 造園業の楽しみと言えば、誰にもできない枯山水、滝山水ができることですよ。明日も枯山水の庭を造りに現場に行くけど、そこは畳1枚分の広さしかない。そこで掛け軸みたいに奥行きを感じさせる庭を造る、そこが技術ですわ。図面さえちゃんとできれば、A3判くらいの小さなスペースでも庭は作れるんよ。
 私は4歳のころには、もう剪定鋏を持っていた。親父が育てていた木の根が枝に隠れて見えないから、そのハサミで、見やすいように切ったわけです。根が出ていないと木は育ちませんからね。そしたら、親父もまさか私が切ったとは思わないから、母親と兄が怒られてた(笑)。7歳の時に作った松は、形、色合いともに銘木ですよ。
 家業は精米とか搾油とかの農産物加工をしていて、30歳くらいまでは、それを手伝ってたんですよ。その後、自動車会社に10年ほど勤めた後、造園業(屋号は「来ればわかる」)を始めたんで、50年ほどになるかな。
 造園を始めた時に、知り合いから民商を勧められて入ったんだけど、入ったきっかけ? 何だったけなぁ。もう覚えんわ(笑)。民商の人たちは話しやすい、甘えられるところがあるなぁ。
 私は15歳から今でも、機械とかの発明もしてるんですわ。だから元気の秘訣は、夢と目的の実行によって、頭をフル回転させることですよ。自分で考える人は活力がある。明日からの現場も、小さくても迫力を出すためにどう配置するか、いまも頭をフル回転ですよ。

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