あえて「判断せぬ」姿勢示す 仮定に仮定重ね国を免責 反対意見を「社会通念」に|全国商工新聞

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「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発 訴訟弁護団 事務局長 弁護士
馬奈木 厳太郎さん

 6月17日、最高裁は、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟(生業訴訟)、群馬訴訟、千葉訴訟、愛媛訴訟の4訴訟について、原発事故に対する国の法的責任はないとする判決を言い渡しました。裁判官全員一致ではなく、3対1と意見が分かれた判決でした。

判断を回避する内容が薄い判決

 多数意見は、対策を命じたとしても、浸水を避けることはできなかっただろうから、責任を認められないというものでした。予見可能性の有無や、長期評価の信頼性といった点について明示的な評価はなく、因果関係が認められないという点についてのみ判断した、非常に内容の薄い判決となっています。
 また、事故前の行政の運用を何ら検証せず、そのまま所与のものとし、その運用から想定される対策を仮定し(一つ目の仮定)、その対策では事故は回避できないと仮定し(二つ目の仮定)、結果は変わらないから責任なしとするもので、責任を否定する方向で仮定に仮定を重ねています。私たちが求めていた事故前の運用が法令に照らして適切だったのかという点には何らの検討も加えず、無条件に前提としてしまっています。
 このような考え方が許されれば、運用に対するチェックはなされず、被害を防ぐことができなくても、責任は免れるという話になってしまいます。つまり、普段からハードルを下げておけば、何か起きても責任はない、ということを許容するようなもので、これではあれだけの被害を生み出した事故から何の教訓も得られません。

求めに応じない まさに肩透かし

 危ないと感じるべき瞬間があったのではないか、危ないと感じなければならない警告があったのではないか、危ないと感じたならば対策を取らなければならず、取っていたら事故を回避できたのではないか、こういった検討の積み重ねの上で、これまでの各地の裁判は国の責任の有無について判断を示してきました。今回の判決は、こうした各地の裁判の営為に対する敬意をまったく払っておらず、なにより原告の求めたものに真正面から向き合うことをしない、まさに肩透かし判決でした。
 真正面から向き合うことをしなかったのは、原子力損害賠償法など原子力を巡る法体系や法の建前というもの(原子力事業者が主体で、国は当事者とはならない世界)を守ることを優先し、原賠法で賠償されるのでそれでよいではないかと、最高裁が考えたからではないかと推測します。
 これは、あえて私たちが求めた点について判断をしないと決断したことを意味しており、原発に関する国の責任については、踏み込んだ判断をしないという、最高裁としての姿勢を示したのではないかと感じています(かつて、旧安保条約に関しても、最高裁は踏み込んで判断しないという姿勢を示したことがあります)。

反対意見こそが求めていた判決

 一方で、今回の判決には三浦守裁判官の反対意見がつきました。反対意見の内容こそ、私たちの求めていたもので、本来、これが最高裁判決となるべきでした。
 最高裁においては、各裁判官が個別の意見を述べる場合がありますが、通常は何らかの論点についてだけ意見を述べるところ、三浦反対意見は、判決の体裁になっています。極めて異例の体裁です。これは、自分が少数派となったものの、多数意見の判断のありように、どうしても許せないものがあり、裁判官としての意地を見せ、後続の訴訟に託したメッセージではないかと想像しています。この想いを受け止める必要があります。
 今回、3対1の判決となりましたが、この1があったことは貴重な成果です。今後、この1を多数意見にすることが、当面の課題となります。その際、強調しておきたいのは、今回の判決は、国の主張を認めて、国に責任がないと判断したわけではないということです。
 最高裁判決が出されたことで、ボールは社会に投げ返されました。
 被害は防げない、国にも東電にも責任はない、それでも私たちは原発を続けますか?――そうあってはならないと、三浦反対意見の内容を「社会通念」にしなければなりません。

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