菅政権の暴走が止まりません。「五輪より命が大事」の世論を無視し、開催を強行。懸念された通り、新型コロナウイルスは感染爆発し、感染者数減少の兆しは見えません。菅政権の無為無策で場当たり的なコロナ対策が、国民・中小業者を追い詰めています。その一方、菅首相は収束後の改憲に意欲を見せています。こうした事態に「何を言っても無駄…」と諦めムードもある中、どうすれば政治を変えられるのか。82カ国を取材した国際ジャーナリストの伊藤千尋さんが「勇気と連帯が社会を変える」と訴えます(2回掲載)。
自主労組が国を変えた
2019年、東欧革命から30周年の東ヨーロッパを検証して回りました。最初に革命を始めたのは、ポーランドでした。グダニスクという町に誕生した自主労組「連帯」が、この国を大きく変えました。
当時、造船所にアンナさんという女性がいました。働き者で、人気があった彼女は、定年まであと5カ月という時、突然、会社を首になりました。上役の汚職を指摘したことへの仕返しでした。首になると、年金ももらえず、退職金もなくなります。
彼女は、「おかしいではないか」と言うと、上司は「おまえを首にしなければ、私の首が飛ぶ」と言ったのです。彼女は、こう言いました。「私は、首を拒否する。あなたも拒否すればいい。そうしたら、あなたを首にしようとする人が出てくるかもしれない。その人も、拒否すればいい。会社は全員を首にするわけにはいかないのだから」
ストライキ禁止の時代に、彼女に共感した数百人が集まって、造船所内でストライキをやりました。そこから自主労組「連帯」が生まれたのです。最初はわずか65人でしたが、1千万人近くまで膨れ上がりました。それを率いたのは若きワレサ氏、後に大統領になり、ノーベル平和賞をもらった人です。
どうすれば労働組合が広がるか、彼は、こう言いました。「われわれは、暴力で広げたことも、暴力を展開したこともない。人々を集め、運動を強くするために必要なのは、友達を増やすことだ」
「連帯」が生まれてから10年間は苦難の道でした。結成の翌年に、1万人が逮捕されたのですから。物が言えなくなった時、彼らは何をしたかというと、電気部品の抵抗器レジスターを胸に付けたのです。「私は抵抗しているのだ」ということを示すために。「私は、政府に服従しないのだ」と気持ちを示した。非暴力不服従運動を10年間続けると、政権が変わったのです。
5人の若者がきっかけ
89年の11月9日、ドイツのベルリンの壁が崩壊しました。ベルリンの壁が崩壊する1カ月前、当時の東ドイツ、ライプチヒという町で、7万人がデモをしました。そのデモが1カ月後、首都ベルリンに波及し、89年11月5日、50万人から100万人のデモになった。その4日後、政府が「支えられない」と、ベルリンの壁を開放すると、人が勝手に出入りするようになった。これがベルリンの壁の崩壊です。市民の運動が世の中を変えたのです。
なぜ、ライプチヒで7万人がデモをしたのか。最初に声を上げたのは、ニコライ教会のミサでの5人の若者でした。
物が言えない時代に若者たちは「このまま、政府の言いなりになっていいのか。社会を変えなければいけない。しかし、『変えよう』と言うと捕まってしまう。でも、何かしたい」と考えました。「そうだ、教会の中でミサの終了後に、プラカードを掲げよう」と、手作りのプラカードを掲げたのです。そこに書いた言葉は、「われわれは、考えなければならない」「われわれは、前に進まなければならない」の二つでした。
ミサに来ていた人々が、「そうだよ。何もしないのが一番いけないよね。何か行動しなければ」と、教会の中で話し合いが始まりました。「話すだけではいけない。何かアピールしなければ、世の中は変わらない」と、教会の外に出ました。
最初は150人。たった5分、500メートルのデモでした。「捕まるのではないか」と、おびえながらのデモが1年後に7万人になって、ベルリンの壁の崩壊につながりました。たった5人の若者の行動が、社会を動かしたのです。
皆さんが掲げているスローガン「商工新聞の購読を勧め、多くの仲間を迎えよう」。「友達を増やす=多くの仲間を迎える」―。これですよ、これが運動を進め、社会を変えていくことにつながるのです。