東日本大震災の被災地は、被災から10年を前に宅地や災害公営住宅などの整備がほぼ終わりました。一方で、地場産業である水産業が苦境に陥り、人口減少・流失が続き、まちの姿の模索が続いています。政府が掲げた「創造的復興」の10年を振り返り、教訓を検証しつつ、次世代に何を引き継ぐか、被災地の現状と「思い」を伝えます。
「もう一度漁を」
「復興は進んだように見えるが、まだまだ大変。道半ば。半分くらいか」-。岩手・陸前高田民主商工会(民商)副会長の佐藤吉郎さん=漁業=は高台から、まちを見渡しながら語ります。
東日本大震災の津波で甚大な被害を出した陸前高田市。市民会館や市民体育館など指定避難所の多くがほぼ天井まで水没、避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けました。県立高田病院では4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1800人弱の犠牲者を出しました。
市の復興計画「夢と希望と愛に満ち 次世代につなげる 共生と交流のまち 陸前高田」では、「津波防災」と「減災」を組み合わせた多重防災型の災害に強い安全なまちづくりを提唱。防潮堤の再建、浸水地域のかさ上げ、さらに住宅の高台移転の三つの事業が進められました。
震災で高さ15メートルの巨大津波に飲み込まれたことから、市は高さ15メートルの防潮堤建造を求めますが、経費がかかりすぎる、多重防御で減災できるとして、12・5メートルに下げられました。
浸水した市街地は、標高約120メートルの「愛宕の山」を切り崩し、2地区で計約125ヘクタールの「かさ上げ市街地」を築きました。最大12・3メートルかさ上げされましたが、これでも浸水への不安は払拭できない高さです。
造成宅地の6割使い道が未確定
「逃げなくていい所に住宅を」と高台移転の希望が多く、市は移転先を増やしたため、土地区画整理事業が広がることに。区画整理は権利関係が複雑で調整に時間がかかり、その上、大規模工事となり、宅地の引き渡しがより遅れました。
その間、自力再建の動きや人口流失が加速するというジレンマに陥り、震災前2万4千人だった人口は、20年時点で1万8千人余りへと減少しました。
防潮堤から内側は、公園、産業、市街地、住宅高台の各ゾーンに分かれます。にぎわいの中心となる商業エリアには、大型複合商業施設「アバッセたかた」や市民文化会館などの公共施設を建設。地元商店が入る予定の市街地ゾーンは、飲食店など100軒が営業する予定ですが、空き地が目立ちます。
また、市により宅地として造成された土地の約6割は使い道が決まっていません。高台の宅地は埋まらず、市民以外にも売り出しが開始されていますが、なかなか応募もないのが実情です。利用法が定まっていない空き地を、今後どう活用していくか…。市は難問に直面しています。
津波てんでんこ伝えていかねば
佐藤さんは「大きな防潮堤が造られたが、あれを乗り越える津波が来ない保障はない。大事なことは逃げること。“津波てんでんこ”」と強調します。
これは“津波が来たら、各自てんでんばらばらに一人で高台へ逃げろ、自分の命は自分で守れ”との津波に度々襲われてきた三陸の言い伝えです。「津波の恐ろしさは何十年、何百年たつと薄れる。しっかり伝えなければ」と語ります。
大震災の当日、3・13重税反対全国統一行動の集団申告のデモを終え帰宅した佐藤さんは、帰りを待ちわびていた長男から「津波が来る。すぐに逃げろ!」と声をかけられ、慌てて軽トラックのハンドルを握りました。振り返ると、軽トラの背後に津波が迫っていました。
「危機一髪。出遅れたワゴン車が波に飲まれ、転がっていた」
今なお、流される人たちの姿が目に焼き付いて離れません。屋根に乗って助けを求める人、手を差し伸べる人…。助けを求める人々を前にしながら、「なすすべもなかった」と唇をかみしめます。
自宅も流された佐藤さんは現在、妻と息子夫婦、孫3人の家族7人で続きの2戸を借り受け、災害公営住宅に住みます。
「夕食は一緒に取れるし、真ん中の孫娘が同居して、ばあちゃん(妻)の面倒を見てくれ助かっている」と目を細めます。
不漁やコロナ禍 次々と襲う試練
妻の介護もあり、漁に出ていません。長男も養殖からは離れ、別の職に就きました。「ショックでなかったのかなあ…」。食べるので精いっぱいで、自宅の再建など口にできる状況ではありません。
広田湾はワカメ、カキ、ホタテなどの養殖が盛んでしたが、津波を機に海から離れた漁師も少なくありません。「道具を無くした」「もう歳だから…」理由はいろいろ。津波への恐怖もあります。
復興に立ち上がる三陸の水産業は、被災による流通・販路の喪失、温暖化によると思われる不漁、さらに貝毒の発生など試練に次々と襲われます。
その上、コロナ禍で首都圏の需要が落ち、販路が見いだせず、価格下落が起きています。
厳しい冬を耐える陸前高田民商にこの春、新しい事務局員が着任することになっています。
「全国からの支援は、ありがたかったです。広島から贈られた船はまだ現役です。もう少し暖かくなれば、海にも出れる日が来るかも…」。佐藤さんの心も動きます。