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  トップページ > 業種のページ > 料理・飲食 > 全国商工新聞 第3323号8月6日付
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業種 料理・飲食
 

「わが街」再発見の良い催し ナイト・ウォーク柳ヶ瀬 リポート

岐阜北民商企画リポート 谷口功一さん

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スナック「麻友」でナイト・ウォーク参加者や常連と楽しいひとときを過ごした谷口さん(右から3人目)。ママ(右から2人目)の誕生日をお祝いしました

 料飲街を元気にしようと全国各地で取り組まれている「夜のオリエンテーリング」。岐阜市の繁華街・柳ケ瀬でも7月18日、「ナイト・ウォーク柳ケ瀬」が開催され、115人、21店舗が参加。岐阜北民主商工会(民商)が中心となった同実行委員会が主催しました。本紙で「スナック千夜一夜」を連載中の谷口功一首都大学東京教授も初参加。スナック研究会代表でもある谷口さんの目に柳ケ瀬の街や夜オリはどう映ったのか、リポートを寄せてもらいました。

スナック千夜一夜 特別版
 歴史的猛暑の中、岐阜駅に降り立った。駅前の電光掲示板が指し示す気温は40度。眼前にそびえ立つ金色の織田信長公の像は「わっはっはっは、焼き討ちじゃ!飛んで火に入る夏の虫め!」と言っているようにさえ見えたのだった。
 今回はナイトウォーク柳ケ瀬に参加するため、生まれて初めて岐阜を訪れたのだが、ここまでの暑さも人生初だった。
 このような催しに参加するのも初めてだったのだが、当日は地元からの参加者の皆さんとも交流でき、また地元の参加者同士も、連れだってそぞろ歩きながら、昔はあそこにあれそれの店があったね、などと懐かしく思い出したりしながら、この機会に自分たちの町を新たに発見するような瞬間にも幾度か立ち会った。「わが街」を知り直す良い催しだと思った次第である。

歴史的猛暑の中南国的な出だし
 ナイトウォークの1軒目は、水野裕人さんが経営する「神室町商店heat」から始まった。水野さんは岐阜出身だが、沖縄での大学時代、その地に魅せられ、帰郷してから、この沖縄料理店を開いたそうだ。軟骨ソーキなどをつまみつつ、本土では珍しいオリオンの生ビールも楽しめる店である。ただでさえ暑い中だからこそ、しっくりと来る南国的な出だしとなった。
 2軒目は、北野恵さんがママをしているスナック「ティアラ」。ここでは、ナイトウォークでご一緒している皆さんとママの心尽くしのおもてなしを受けつつ、カラオケを楽しんだ。ご一緒した参加者のお一人が、ずいぶん前に一度この店をたまたま訪れていたらしく、久しぶりにそのことを思い出して懐かしがられていたのが印象に残った。店に歴史あり、人に歴史ありである。

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世界的ジャズプレーヤーも多く演奏した「ジャズ・イン・マモ」。店長の大谷喬さん(右端)と話が弾みました

 イベントの枠内で訪れた最後の店は、打って変わってジャズライブの店、大谷喬さんの「ジャズ・イン・マモ」だった。当日はジャズのライブはなかったものの、かつてこの店にはジャズの巨人ロン・カーターも出演したことがあると聞き、思いもかけず「ジャズの聖地」とも言うべき場所を訪れていることを知った。かつては、東京からでもお客が詰めかけたほどのライブバーであったとのこと。これまでこの店で演奏したゆかりある多くのジャズマンの名前を聞き、ジャズファンの私は、岐阜の文化的底力に心から驚いたのだった。74年開業、私とほぼ同い年の店である。

参加者もお店も地元愛あふれて
 ここでいったんイベントとしてはお開きとなったのだが、柳ケ瀬の夜はまだ終わらない。地元から参加されていた堀田さん親子の導きで、孫晶(ソンアキ)さんの営むカラオケバー「ちびタヌキ」にお邪魔した。ビックリするほど立派なステージのあるお店で、岐阜愛にあふれたご当地ソング「やんやん(G2)」の存在も教えていただいたのだった。近年、ヒップホップなどで地元の絆を歌い上げるものは少なからずあるのは知っていたが、レゲエでそういうものがあると知ったのは初めてだったので、感じ入るものがあった。
 さらにお誘いを頂き、最後に訪れたのは、ビシっと和服を着こなした美濃輪バーバラさん経営のスナック「麻友(まゆ)」。ちょうど、常連のお客さんとママの誕生日が祝われるにぎわった店内で、運良くとても達者な方が歌う「柳ケ瀬ブルース」を聴けたのは、大きな収穫だった。その地で実際に聴くご当地ソングは、なかなかに心に染みるものである。普段から来ているお客さんも含めて満員の店内を見ていると、いかにこの店が愛されている店なのかを伺い知ることができ、そういう楽しい輪の中に、たまさかのご縁で混ぜていただいたことに感謝しきりであった。余談だが、「柳ケ瀬ブルース」はわが国におけるご当地ソングの先駆けの一つでもあるらしい。

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次の店をめざして参加者の皆さんと移動。道中、街の成り立ちを学ぶことも

 この間、岐阜の街としての成り立ちと来し方についても、地元の参加者の皆さんからさまざまな話を伺うことができた。もともと中国東北部からの引き揚げ者たちが中心となって形成された大繊維問屋街(通称「ハルピン街」)から発展してきたものであり、今から半世紀前に「柳ケ瀬ブルース」が歌い始められた時には、肩がぶつからずに歩くのも難しいほど街もにぎわっていた。他の地方都市の例に漏れず、柳ケ瀬もまた現在ではシャッター商店街化しているのではあるが、夜の街を巡り回って、店主たちと出会い、街の灯をともし続けようとする思いに触れることができた夜でもあった。
 日付が変わったころ、柳ケ瀬の夜の街を後にして、美川憲一が「柳ケ瀬ブルース」の発売50周年を記念してチャリティコンサートを行ったホテルグランヴェール岐山に帰投した。この際、昭和の「肩をぶつけながら歩く」ような柳ケ瀬が再び戻ったという逸話を思い出しつつ、私は眠りについた。
 翌日、帰京するため、相変わらずすさまじい暑さの中、岐阜駅に向かったが、帰りしなに見た信長公は、今度は打って変わって「楽しかっただろ、また来いよ」と言っているように見えたのだった。柳ケ瀬よ、また会う日まで。

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全国商工新聞(2018年8月6日付)
 
   

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